HSP傾向のある自分が、この社会を生きるとき、困っていることと対応策の考察。

こんにちは。INFP・HSP傾向のある自称小人属性のりさです。このnoteでは、私が「雇われずに自分の力で稼ぐ」を目標に、考えたり、実行したりしたことを備忘録的に書いていこうとしています。

今回のお題は、「この社会を生きるとき、困っていること」です。結構この部分が「生きづらい」と言う感覚にひとくくりにされがちですが、何に困っているのかを具体的に書き表すことで、それにどう向き合うか、また避ける必要があるならどう避けたらいいのかを考えてみたいと思います。その中から他者の協力が必要なことに関しては、「これに困っているので、こういう風に助けてほしい」ということが大切だと思いますので、それが言えるように考えをまとめてみます。

今回はHSPの特徴である「DOES」の4つの特徴を基軸にして、私自身が困っていることを中心に話を進めてみようと思います。


注意事項としての前書き

MBTIタイプ論からのINFP、HSP自己測定上のHSPは、私の性格のすべてを表しているものではありません(MBTI検査は専門家の元で行ったものです)。INFP、HSPにもさまざまなタイプ、濃さがありますので、結局私は私です。『INFP、HSPの傾向がある』くらいに捉えていただくのが良いと思います。また、MBTIタイプ論もHSP測定も言っていますが、それは人にレッテルを張るものではなく、私という人間の一番わかりにくく私としても説明しにくい部分を分かりやすくシェアできる可能性が高い定義として使わせていただいています。

1.Depth of processing(深く考える)性質で困っていること

ここで言えることは、とにかく「周りとペースが合わない」ことや「価値観が違いすぎる」ということです。これを具体的に書いていきますね。

・周りとペースが合わなくて困っている

深く考える性質ですと、私の場合はものごとが起こったときにその体験を反芻して咀嚼する感覚があります(これはもしかしたら私の持つINFP傾向の特徴から来ているかもしれません)。そしてさらにそれの意味付けや私の人生の文脈にどう落とし込むかを熱心に考えます。考えようとしているのではなく、それを心身が勝手に行います。

そして、それで周りと合わなくなる最大の要因は、体験を反芻しているときとそれを自分の中に落とし込んでいるとき、とにかく時間がかかるということと周りからの刺激に弱くなっていることにあるかなと思います。

それによって、私には静かな場所で一人で考える時間が人よりも必要ですし、自分の中に落とし込んでいるときは、例えば仕事をするなどしているときものすごいストレスがかかってきます。

おそらくこの性質を持たない人にとっては、上記のような私の時間は必要ないでしょう。そのストレスもわからないかと思います。ですので、私の時間を見たときに「何をやっているんだ?」と分からなくなるだけならまだいいのですが、「なまけている」とか「余計なことを考えるな」とか「考えすぎ」とかいう苛立ちをこちらに向ける方も私の人生の中ではいたと思います。

これは余談ですが、ここでさらに悪影響となるのは、私の場合は「そういう風に他人を苛立たせてしまう私がおかしい、間違っているんだ、私のその部分をなくさないと」と思ってしまう認知の歪みです。これがない方なら「私は私のペースがある。邪魔すんな」でいいと思いますが、私には認知の歪みもありました。

これは性質で、私がおかしいわけでも間違っているわけでもありません。情報の処理の仕方が深くて長いだけです。そして、その性質がない方に理解を求めるにも時間がかかると思いますので、最善策はやはり理解が難しい方とは住み分けをした方がいいのかなと言うところです(これは後述する『共感性』の部分から言っても有効かと思います)。

・周りと価値観が合わなくて困っている

また、深く考える性質で困っているもう一つのことは、周りと価値観が合わないということです。これはさらに言えば後述する『共感性』の部分とも関連してくると思います。

私は深く考える性質のおかげで、例えば10代の頃はものすごく大切な人生の指針となるような考え方をいくつも思いつきました。そしてさらに驚いたことは、その考え方は昔からある思想、ソクラテスの考え方、仏教の考え方、ユダヤの考え方、老荘思想の考え方、キリスト教の考え方などに通じる部分がいくつもあったといくことに後々気付き、深く考えれば個人的にもそういった考え方に行きつくことができるんだと知りました。これはやはり私がINFP傾向があり、道徳的に善いことを追求することに重きがあったからそういった考えに至ったのだと思います(もちろんその考え方の体現方法は極めて幼稚でしたが…)。

ただ、私はその年代にその価値観を共有できる場面が全くありませんでした。今思えば私の居場所探しに難点はあったかもしれませんが、とは言えそれは本当にフラストレーションが溜まりました。ですが、それを自分から出していくスタイルではなかったので、表にはそういった思想を大切にしているという様子は出さずに、友だちと楽しくいられるために道化を演じていた部分が多かったと思います(同時に私も幼く迷惑たくさんかけましたが)。でもそのときはそういう関わり方が楽しかったし、その友だちとは今も楽しく付き合っているので全く問題はないです。

それはともかく、私はそういう情報の収集の仕方と処理の仕方をするので、やはり周りと価値観が合いません。人の考え方はそれぞれですから違って当たり前なのですが、私の場合は違いすぎると感じています。

具体的な話をします。例えば職場で同僚は、『1日8時間 週5で働く』『我慢して働くのは仕方がない』『上司の理不尽な要求も甘んじて受け入れなければならない』という考え方で行動しています(実際にそれについて話してもいます)。さらに言えばそれらは「その方々が幼いころ親の世代がしていたことを踏襲していけばいい」という姿勢であり、私はそれが受け入れられません。私は『1日は自分の最適リズムで働く(人と接する:3時間、一人で働く:4時間とか。集中する作業は週20時間とか)のが理想』『周りが我慢していることは私にとって過度のストレス、なるべくかわせるようにしたい』『要求の交渉もできない上司とは働かない(コミュニケーションを工夫してもまだそういった傾向が残ってしまう場合)』という考え方です。だいぶ違いますね。

加えて言えば、私も上記の私の働き方に関する考え方で今すぐ生きられるとは思っていません。私の周りの環境が整っていないからです。ですが、上記のような、自分を最大限発揮できる環境を整えていきたいと思って行動しています。さらに言えば本当はそういう働き方が良いと思っている方も多いとは思いますが、現状をどのように変えていったらいいか分からないのでその願いは放置されてしまうか、またはできっこないと諦められているのではとも推測します。

さてここで問題なのは、実は考え方が違うということそのものではありません。後述する『共感性』と関わって困ったことが起きます。そうです、私は自分の考え方があり、それは同僚たちと違っているのにもかかわらず、同僚たちの考え方に共感し、引っ張られてしまうのです。私は私の働き方に対する願いがあるのに、同僚たちの「そんなことはできっこない」とか「しかたないから現状のまま我慢して働く」とかいう姿勢や呼吸感や発言に引っ張られ、私自身にも「私の理想の働き方なんて実現できない」といった感覚が入り込んできます。この価値観の違いと共感性によって起こる自己矛盾が私にとって嫌なことなんですね。

他人の考えを変えることはできないと思っていた方が良いので、思いつく最善策はやはりそのような環境とは住み分けをすることが大切だと思います。今回は詳細に書くことは控えますが、私は人に尽くし癖があるので、もしこれが同僚と同じ立場である社員で働いていたら「みんなと歩調を合わせて同じ方向を向こう」として、さらに同僚と同じ価値観にしていこうという力が働いてしまうと思います。なので、パートとして働いて、その方々とは少し離れた関係であると自分にも同僚にも線引きを見えやすくしたのは良いことかなと思いますし、そのおかげで今私は価値観が違って嫌だということ、自分は染まりたくないということを明言化出来ているのだと思います。とはいえ、現段階で私は同僚の考え方に引っ張られてしまいがちなので、とりあえずは就業中にはもっと「みんなと考え方が違うんだ」「自分は自分の道を行くぞ」と自分に言い聞かせることくらいからはじめてみようかなと思いました。

2.Overstimulation(過剰に刺激を受けやすい)で困っていること

これで困っていることは、私の場合以下の1点に尽きます。

・疲れやすくて困っている

1と関係するところもありますが、刺激を受けることでものすごく疲れやすいのと、刺激を深く長く処理する傾向があることでまた疲れやすいというのはあります。

ある程度は体力づくりなどでカバーできると思いますので、やはりバランスのいい食事と適度な運動は欠かせないと思います。私はまだ出来ていないですけどT-T

さらに、刺激への耐性を作るため、日々をある程度予測できるものにした方がいい部分はあります。どういうことかというと、日々することはリズムよく規則的、パターン化することで慣れを促し、その部分に対しては余計なエネルギーを使わないようにすることができる可能性があります。私はこのパターン化で省エネで行動をして、それ以外の時間やエネルギーを新しいものの発見や新しい刺激の取り込みにあてていた時期がありました。

よく言われているように、現代社会はHSPでない方でも処理しきれない膨大な刺激にさらされる時間が過去のどの時代よりも増えていると思います。なのでその刺激の疲れから身を守る術は必要だなあと感じています。

私が今気をつけていることとしたら、気をつけているというか、自分が心地よくいられるために気がつけば実はしていないなあと言えることと言えば、やっぱりSNSやYouTube、検索漁りかなと思います。騒がしい場所や不快な思いをする場所にはそもそも行ったりしないです。ネット上の情報については、そういったものを見ても今はあまり面白いとも思わないし、知りたい情報よりも今の季節の香りに浸って美しい景色を眺めている方が心地いいからです。たき火したり。

ここに関わりますが、刺激を受けやすい、つまり少しの刺激でも自分の中の刺激需要ビーカーがすぐいっぱいになる、ということから、周りの自然を見ているだけで心が満たされるというのはとてもありがたい性質です。また、INFP傾向から、それらの要素のつながりや意味などを想像するとものすごく気持ちがいいし活力がわいてくる感じがします。

なので、自分が好まない刺激からはやはり住み分けが大切だなと感じている次第です。

3.Empathy and emotional responsiveness(感情反応の強さ、強い共感力)で困っていること

共感力自体は人間が必要とする要素でとても大切なものです。私は共感による癒しが本当に好きです。ただ、使い方の加減が必要であって、それがうまくいかないと困ることがあるなあと感じます。

・共感しなくていいところ、したくないところで共感してしまって不都合が起きることで困っている

これは1の話とも絡んでいましたが、そうなんです、共感は良いのですが、私自身が、実は共感しなくてもいいところやしたくないところ、おそらく共感してはいけないところにまで共感してしまって、自分が苦しくなったり自分の願望を悲しみながら諦めてしまうような気持ちになることは不都合だなと思います。そして、私の周りの環境は、私が共感しなくてもいい、共感したくない考え方が多いので、身の守り方が重要だと感じます。

また、人の気持ちに引っ張られやすいことから、自分の人生の安心感や幸福感の基準を他人に頼る癖がつきやすい可能性も出てきます。「自分の人生の安心感や幸福感は、いつ何がどうなるともわからない他人に頼るしかない」と思う状態ほど、無力感があり自分を諦めてしまう状態はないのではないかと思います。

これは今回の私の文章からもう少し具体的に言えば、1で挙げた価値観に関しての共感ですね。私が『自分らしく無理せずに自分の力を発揮して働きたい』と願ったりするのに対し、私の身近な人は『今ある仕組みで仕方なく我慢して(も別にそこまで辛くないし一定の恩恵は受けられるから)働く』と考えていて、私は私の望みを抑圧して身近な人の考え方に引っ張られ寄せていき、私の願いも『今ある仕組みで仕方なく我慢して働くしかない』となってしまう、というような状態です。

これは、私の共感力のコントロールがうまくいっていない状態かなと思います。うまくいっていない原因としては、以前は「共感しなくてもいいところ、しないほうがいいところ、したくないところ、してはいけないところ」が自分の中で明確でなかったということや、今は自分の心身のベースができていないということが主に挙げられると思います。

もう少し、『自分の望み』を明言化して自分に落とし込み、そこはブレないようにという意識を持ってみようと思っています。

・なかなか境界線が引けなくて困っている

これは以前よく同期質の友人と話になった内容ですが、他人との共感における境界線の引き方がとても難しいということです。

やはり元からの性質なので、ある程度は線は引けないものだと思うくらいでもいいのかもしれないと最近では思いはじめています。また、うまくコントロールできればこの共感性は社会でも有効活用してもらえる要素かもしれないとも思っています。その上で、自分に不都合な状態をある程度回避するためには、以下の二つが必要かなと思っています。

A.共感して疲れるものとは物理的な住み分けをする
B.境界線に対する思い込みをなくす

Aに関してはそのままですね、共感してしまうことは仕方がないので、「共感して自分がつらくなる」ものとは物理的に距離をおいては慣れる必要があると思います。おそらく、離れられないと感じられるものは共依存になっている可能性があるかもしれません。

Bに関しては以前のnoteでも書きましたが、私が若かったころの日本で良いと言われていたようなことで「境界線を引く(区別をする)ことは悪いことである」ような思い込みを誘発する内容があったように思えます。例えば、他人を自分のように、また人は区別なく大切にしましょう、とか、人と仲良くしましょう(私は『仲良くする』とは、『共感し合う』と定義していたようですね)、とか、あるいはもし境界線を引いてしまうと周りの人が離れて行ってしまうという考え(この辺は共依存のグレーゾーンだと思います。私はすごくこれがあったと思います)そんな感じでしょうか。

本来なら境界線を引き、『個人』として自立した状態で、さらに相手も自立した状態の『個人』として付き合っていくのが健全な状態かと思います。ただ、日本は文化的にもその『自立した個人』としての感覚が弱いように思えますし、また『個人』同士が互いに尊重し合いながら関わっていくという姿勢を知らない方が私が生きてきた環境では大半を占めていたと思います。

なので、別の方のnoteやブログなどでも目にする内容ですが、境界線を引くことは特にHSP傾向のある方にとっては自分を守るために必要なことなので、できるなら積極的に行いたいことですし、自分の境界線はもちろん相手の境界線も脅かさないお互いに尊重された状態であるために、境界線に対する思い込みは捨てていくことは私にとって必要なことかなと思っています。

…なかなかできないですけどーT^T

4.Sensitivity to subtleties(些細なことを察知する)で困っていること

これは、この性質自体で困っていることはないかなと思います。むしろ周りの些細な現象を感じ取るのは面白く、また人間の脳での処理を介して得られる情報よりも質が良く心地もよいです。ただ、それを察知したあとの処理方法について、困っているとまで言いませんが、もっとこうなったらいいのにな、と思うことがあります。

・理解されないのがちょっと悲しい

私自身でも明言化できない部分で察知していて『こう感じる!』という感覚はあるのですが、説明力がないためになかなか察知したことを理解してもらえません。理解してくれなくてもいいのですが、私が誰かにそれを伝えたときに、些細だからといって『ないもの』にはしないでほしいなあというちょっとした愚痴というか希望があります。若いころ、私が見つけたものに対して、理解までしてくれなくても、ただ「そういうものを見つけたんだね」という対応をしてもらえる方と出会えていたらよかったなあと思います。自分も生意気だったので、それが原因で出会えなかったとも言えるかもしれませんが。

・やっぱり疲れやすい

ここは1や2とも通じている部分だと思います。些細なことを察知することで、その情報を深く長く処理し、そこで受ける刺激にも敏感なので、消耗しやすいということはあると思います。なので、とにかく自分が安心・回復できる時間や空間を徹底的に確保して、できる限りで良い状態を確保できるような環境づくりは、こういった性質を持つ方には必須なのではないかなと思います。

加えてこの部分で言うと、私のINFP傾向の性質から、察知したことを上手に外の世界へ伝えられないというフラストレーションがあります。それはHSPの内容とはまた違ってくると思うので今回は割愛します。

5.まとめ

今回の困っていることに関して、今ひとまず言える対策としては、やっぱり

少し工夫してもまだ不都合に感じたり疲れる環境からは、物理的に住み分けをする・距離を置く

ということだなあと改めて思いました。

不都合・疲れるという感覚があっても、工夫次第で改善できる段階のものもあると思います。最初から住み分け前提をしなくてもいいかなと。

ですが、やってもどうしても難しい、という状況でしたら距離を置くのが妥当だと思います。

上記の内容を書きながら、上記のような困りごとがある世界へ繰り出していくときは、安心できる場所で自分の回転を独楽のように身につけてから出ていくのが良いのかなと思いました。

独楽は、自分の軸で回転します。ある程度の自分の身の回りの困りごとは、その回転の力で寄せ付けないというイメージです。その回転(リズム)を身につけて身を守りながら、困りごとのある世界でもう少し困りごとを寄せつけない活動ができる自分になりたいとは思います。

それでも困りごとが発生する場合は、誰かに相談できる体制も必要ですし、自分の回転をもっと速くする必要もあるかもしれなくてその訓練ができる場所などもほしいかなとは思います。

私にはほかにも困りごとがありますが、また自分の行動を見つめながらこのように言語化を試みたいと思います。


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