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蝋、虚ろ、移ろう


毎朝、交差点で見かけるたびに気になっていた。
今日はタイミングよく信号が赤だった。


冷たい空気の中に春の日差しが交わる2月。
虚ろが鳴く灰色の朝、自転車を走らせる。
寒さに慣れるにつれ、少しずつ色が飛び込んできた。

ここのところ、交差点で見かけるその姿に惹かれている。
もっと近くに寄ってよく見たい。
触れてみたい。
そう思いつつも、迫る出勤時間と青信号に急かされていつも素通り。後ろ髪ひかれながら。
青信号を一回見送るくらいの余裕がほしいところ。なのに、いつも家を出るのがギリギリになってしまう。明日こそは。

次の日も、そのまた次の日も、土日を挟んだ休み明けの朝も、変わらぬ姿でそこにいることにホッとする。
でも、そろそろ居なくなってしまうかもしれないから。
その前に、どうかチャンスをくださいと願った。

交差点の信号は、今日も青で「すすめ」と促す。
かと思った次の瞬間、点滅して、目の前で赤に変わった。チャンス。
自転車を道の端に停めて、きみに近付いた。

空に背を向けて、控えめに咲いているきみ。
風が吹いたら、ベルのような澄んだ音が聴こえてきそうな風貌をしている。
花弁は、溶かして伸ばした蝋のように柔らかく。
艶々と青空を透かして淡い黄色がよく映える。
子どもの頃に憧れた、紙石鹸のよう。
思わず触れてみたくて更に近くへ寄ると、甘さを含んだ石鹸のような、清潔感のある香りがした。

信号が、再び青になる。
きみに別れを告げて、進む。
ほんの僅かな時間。
だけど、豊かな時間。

香りを反芻しながら、冷たい空気を切って走る。
寒い寒いと身を縮めながらも、進んでいればいつか辿り着く。その頃には、身体もあったまっていたりして。

春へ向けて、いろんなことが動き出そうとしている。
季節も、人も。移ろうことは少しさみしくて、でも眩しくて胸が高鳴る。

変わらないでと嘆くのではなく、引き止めるでもなく、前へ進む決意を祝福したい。
そうやって誰かにエールを送りながら、自分も新しい世界を切り拓いていけるように。

花の少ない冬、春に先駆けてそっと咲く花、蝋梅。
桃や桜が咲くまでには散ってしまうだろうけれど。
また来年もここで会えるように。
そのときは、今より満ちた自分でいられるように。

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