心に追い風を吹かせる音楽(odol)


某日、用事のため出かけた足でCDショップへと立ち寄った。
オンラインショップで注文すれば自宅までCDを届けてもらえる現在、様々な個人的事情もあって実店舗へ赴くことは少ない。故に、久しぶりの店内に私はワクワクしていた。
今の私にとってCDショップは宝の山に見える。数年前よりもずっと。それは、ここ数年でさまざまな音楽に触れて自分にとっての音楽の世界が広がったことの表れなのだと思う。
店内で流れている音楽、スタッフによって書かれた熱量のこもった販促ポップ、その一つひとつに胸が躍る。
目当てのものへ真っ直ぐ向かってもいいのに、あえて関係ない棚から順にじっくり眺めてみたりする。

寄り道しながらようやくたどり着いた目当てのもの。青い紙のCDケースを手に取る。
6月9日にリリースされたodol(オドル)の新譜、『はためき』だ。
ジャケット写真は水滴かと思っていたけれど、実物を手に取って見てみると青空を漂うシャボン玉だと分かった。紙のケースは想像以上に薄い。この中に、楽曲たちがぎゅっと詰まっているのだ。私は、これから出会う宝物を手にレジへ向かった。

2年8ヶ月ぶりにリリースされたそのアルバムは、9曲中「未来」と「独り」を除く7曲が既発表、さらに内5曲はCMソングなどタイアップとなっている。
けれど私にとってはほとんどが新曲のようなもので、リリース以降毎日のようにTwitterに流れてくる新譜の感想は新鮮な称賛の声であふれていて、期待値をぐんぐん高めていった。

▶︎UCC BLACK無糖「#この気持ちは無添加です」キャンペーンソング「かたちのないもの」


私がodolを知ったのは、2019年の暮れ。
相鉄都心直通記念ムービー』がきっかけだった。ムービーには、くるりの「ばらの花」とサカナクションの「ネイティブダンサー」のマッシュアップ楽曲が用いられ、そのボーカルを務めたのがシンガーソングライターのyui(FLOWER FLOWER)と、odolのミゾべリョウ(敬称略)だったのだ。


私はそれまで、odolというバンドについて何も知らなかった。
なんて優しくて心地良い歌声なんだろう、というのが第一印象。けれど当時はそれ以上深く追うこともなく月日が過ぎた。

そして、2021年1月。
ふとしたきっかけから久しぶりに『相鉄都心直通記念ムービー』を観て再び感動し、改めてodolの存在が気になりだした。
バンドのオリジナル曲を聴いてみよう、とYouTubeでMVを探す。
最初に聴いたのは、アルバム『はためき』にも収録されている「小さなことをひとつ
透明感のあるミゾべのボーカルが、寝起きに飲む水のように身体に沁み渡った。

きっとどこかの街に
僕と君と同じように
今日も笑っている人がいる

そんなことをほんの少し
想像してみるだけで
ふっと笑顔になっていくでしょう?

(小さなことをひとつ/odol)


見逃してしまいそうなほどささやかな日常にスポットライトを当て、丁寧に切りとり、大切に守るように歌う。心を掴まれるまで一瞬だった。
その後も「人の海で」「生活」などを聴いて少しずつ好きを深めていった。

▶︎2020年12月17日に渋谷で行われたワンマンライブ『individuals』より「人の海で」のライブ映像。
様々な映像が投影される箱状の紗幕の中で歌うミゾべさんの姿がミステリアス。
冒頭の不穏なピアノと深海へ誘うようなベースの音で一気に引き込まれる。ミゾべさんのボーカルとコーラスの響き方も神がかってるので、ぜひ。


odolは、すべての曲の作詞をミゾべリョウ(Vo/Gt)が、すべての作曲を森山公稀(P/Synth)が担っている。そこへメンバーの井上拓哉(Gt)、Shaikh Sofian(Ba)、垣守翔真(Dr)が音を重ねてodolの音になる。
※この文を執筆当時のメンバー。6月21日のInstagramライブ配信にて、6月末でギターの井上拓哉とドラムの垣守翔真が卒業することが発表された。

odol(オドル)というバンド名ではあるものの、ノリのいいダンスミュージックの系統ではなく、ヒーリングミュージックのような穏やかな楽曲が多い印象だ。
「静」と「動」で言えば「静」寄りの音楽。でも、静かさの中にも確かな熱量と強い眼差しを感じる。
派手さはなくとも誠実に紡がれた音と言葉、ひとつひとつ丁寧に音符を置くように発声するミゾべのボーカル。メンバーそれぞれの音楽に向き合う真摯さは、それだけで心を震わせる。
『はためき』も、アルバム全体を通して「静」の色が濃く出ているように思う。
どの曲にも、陽だまりや木漏れ日のような穏やかさ、心地よさがある。聴きながら、ゆっくり身体を揺らしてしまうような。

「小さなことをひとつ」で始まり、「歩む日々に」で締めるという流れもアルバムとしての魅力を引き出していると感じる。
通して聴くと背筋がすっと伸びるような、心に追い風が吹くような気持ちになるのだ。

中でも個人的に心を掴まれたのが、5曲目の「虹の端
2017年にリリースされた曲をリアレンジしたものが収録されていて、今回のアルバムにピックアップされたのはodol自身が「今年聴きたい」と思ったからだそうだ。
ミゾべのボーカルとループする柔らかなピアノの音色で始まり、少しずつドラムやベース、ギターが音を重ねていく。
2番のサビでコーラスが加わって音が広がると、風が吹き抜けるような清涼感に心がすぅーっと浄化され、聴くたびになんとも言えない気持ちになる。やさしくて、でも少し目の奥がつーんとするような不思議な魅力のある曲だ。

ライブバージョンもぜひ。
寡黙で誠実なドラムの演奏と最後のギターソロ好きすぎる。

ねぇ 歌って
リズム乗って 風に乗せて 何度だって
ワ!笑って
君の声で 僕の声で
音楽ってこんなかんじ?
遠くだって 近くなって
もう 不安な気持ちなんて
飛んでゆくよ

(虹の端/odol)


私は、ここのところ悩んでいた。
趣味の範疇ではあるものの、創作活動、表現を続けていく中で自分の生み出すものに自信が持てなくなっていた。
最初は、表現を通して閉じ込めてきた感情や言葉を取り戻していくのが嬉しかった。けれど、もっともっとと自分の内面や痛みに深く潜るにつれ体調を崩したり、情緒も不安定になることが増えていったのだ。まるで心の自傷だ。それでもやめられなかった。
自分の表現が誰かを傷付けているんじゃないか、心の傷を抉ってしまっているんじゃないかと不安になることもあった。本当の気持ちを吐露するほどに、孤独感が増していくようだった。
これが本当に自分が表現したいことなんだろうか。どんどん、分からなくなっていった。
そこまでして表現を続けることに何の意味があるのだろう。何者でもない私が。

苦しい。
言葉を選ばずに言えば、苦しかった。

そしてある日のある瞬間、積み重なった不安が巨大な影になって襲いかかってきた。
ダメだこのままじゃ飲み込まれる…… そう思い手を伸ばした先にあったのは、また別の「表現」だったのだけれど。その選択は間違っていなかったようで、無心になって描いていると気持ちが落ち着いていくのを感じた。
そして完成したそれを見たとき、今までのいろんなことが頭をめぐり、不思議と「大丈夫かもしれない」と思えるようになっていたのだ。
不安がすべて晴れたわけじゃないし、また酷く落ち込むことだってあるだろうけど、きっと大丈夫……と、自分なりに光を見つけられた気がした。

そんなタイミングだったのだ、odolの新譜『はためき』に出会ったのは。
まるで、風に乗ってそっと手のひらに手渡されたかのようなさり気なさで、すっと耳に馴染んで、心に沁み込んで。
新鮮なうちに、曲を聴いて感じたことを綴っておこうと思った。その過程で目にしたodolのインタビューにて、まさに自分が悩み考えをめぐらせていたことが語られていたので驚くことになる。 


アルバム制作にあたって、また日々音楽活動をする中で、作詞のミゾべと作曲の森山は意見をぶつけ合ったと言う。音楽をやる意味があるのか、とか。表現することに対する覚悟とか、表現するべき理由があるのかとか。そういった根本の部分についてのことを。
森山は語る。表現するということは、すごく人を傷つけることでもある、と。
「人はいつも誰かを傷つけながら生きている。にも拘わらずなぜそれを表現するのか。なぜこの言葉を発するのか。そういうことにそれなりの責任を持たないと、カッコいいとは思えない。そういうのを無視して表現し続ける人にはなりたくない」と。

私は、自分の言葉や表現で誰かを傷付けるのが怖かった。もっと言うと、そうやって誰かを傷付けた結果人が離れていくかもしれないのが怖かった。
けれど、そもそも「表現する」ということは誰かを傷付けてしまうことだったのだ。odolでさえもそうなのだ。自分は何に悩んでいたんだろう。
傷付けることは避けられない。それは決して、誰かを傷付けることへの免罪符でもなく、傷付けてもしょうがないという開き直りでもない。
表現は人を傷付ける。それでも表現をつづけていくのなら、それなりの覚悟が必要なのだろう。覚悟した上で慎重に言葉や音を選び、形にして、届ける根気と勇気が必要なのだ。

二人はそういった思考の深い部分を度々、できる限り共有してきたそうだ。他人同士だから完全に分かり合うことはできない。けれど、だからこそ「伝える」ことを諦めずに意見をぶつけ合うことでお互いを信じられるようになった、と。
odolの、音楽や目の前のことに向き合う真摯さがよく表れているエピソードだと思った。

odolの音楽は人によっては、もしくはその人の置かれた状況によっては「優しすぎる」と受け取られることもあるかもしれない。
けれど、よく耳を澄ますとヒリヒリと胸が痛むような違和感が含まれていることに気付く。むしろ、聴けば聴くほどそういった輪郭が強くなる気さえする。
心の奥底で沸き立つような、青い炎のような情感。いつまでも燻っている思いの類。
見抜かれて、じんと胸が痛い。けれど、声に出せない叫びをすくい上げてくれるようでもあり、うれしくて安心するのだ。

odolの音楽は優しい。
でもその優しさは、自分たちの表現が人を傷付ける可能性があることを覚悟しながら丁寧に選びとった音や言葉の上に成り立っている。
痛みも苦悩も、どうか正しく届きますようにと包み込んで手渡されるから、こんなにもやわらかく、あたたかい手触りなのかもしれない。

すこし寂しがりなあの子にも
いつも嘘つきなあいつにも
君だけの声で

さぁ 歌って
優しい声で 楽しい声で 何度だって
ワ!笑って
高い声で 低い声で

(虹の端/odol)


寂しがりにも、嘘つきにも、元気なときも、そうじゃないときも。odolの音楽は、どんな人にも平等に寄り添う。もっと言うと、音楽ってそういうものじゃないかとさえ思えてくる。


新曲「未来」には、未来と聞いてイメージするようなポジティブな言葉はあまり登場しない。けれど、これから歩む日々への祈りが託されている。

〈経験が僕の裾を踏むけど
その重さも全部受け入れて今日も行くんだ〉
〈風は吹くだろうか
吹くとして乗れるだろうか〉
〈僕がどうかこれからも
こんな僕のままいられますように〉ー未来(odol)


6月末でodolは5人での活動に区切りをつけ、それぞれに新しいスタートをきる。
『はためき』が、これからのodolにとっての追い風となることを願いたい。
そして、きっと大丈夫だろうという信頼というか、手応えのようなものが『はためき』には詰まっている。

どうかこれからの僕らに
光が降り注ぐように

(独り/odol)


風に乗って、どこまでもこの音楽が届きますように。
odolがこれから歩む日々に、光が降り注ぎますように。
いちリスナーとして想いを馳せながら、今日もCDプレイヤーの再生ボタンを押す。


✳︎


今回の文章をrockin'on.comの音楽文にて掲載いただきました。


私にしては珍しく5000字以内に収まりました。
人物名を敬称略で書くのはGOMESSさんの音楽文に次いで2回目…かな。
全体的な文章の雰囲気や流れでどっちにするか決めているけれど、どうにも慣れないです。敬称略。

odolも「1月の音楽の地図」として記事にしてnoteで取り上げるつもりだったけれど、書けないまま月日が過ぎて新譜の発表。その新譜が良すぎたので、サカナクションに次いで単体で書くに至りました。

執筆の真っ最中にメンバー2人の脱退(卒業)の発表があったのでしばし呆然としてしまったけれど、それぞれのこれから歩む日々を応援したいです。
5人としてのodolはここで一区切りだけれど、『はためき』には5人の音と声が詰まっています。どうかたくさんの人に届きますように。

↑いい写真だ〜〜


そして今回の音楽文は「音楽文」ではあるけれど、ある意味2つ前のnote『文章を書きつづけていたらなぜか絵が上手くなっていた(?)はなし』のつづきのような内容でもあるな……と思っています。
「表現する」というのはどういうことなのか、改めて考え気付かされました。



今回の音楽文を書く前後で私自身にとても変化があったので、ちょいと時系列にまとめてみますね。

↓↓↓

自分の内面や痛みに深く潜るような文章が増え、文章を書くたびに体調を崩したり情緒が不安定になったりするようになる(年明けくらいから顕著に)

自分の表現が人を傷付けているんじゃないかと不安になる。
ここまでして書き続けることになんの意味があるのか、とかぐるぐると考えだす。

ある日、積み重なった不安が巨大な影になって襲いかかる。
不安に飲み込まれそうになる(なんとかしなきゃ)

「そうだ、絵を描こう!」
無心になって絵を描く。たのしい。(6月12日頃頃)

完成した絵を見て、2年前と見比べて成長を感じる。
文章を書き続けることも不思議と「大丈夫かもしれない」と思えるようになる。例のnoteも書き始める。

有休(有給?)をとって、髪を切り(ヘアドネーション)に行く。(6月17日)

その足でCDショップへ赴き、かねてより気になっていたodolの新譜「はためき」を購入。


聴く。めちゃくちゃ良い。

note『文章を書き続けていたらなぜか絵が上手くなっていた(?)はなし』が完成したので、投稿。(6月19日)

odolの音楽文を書く。
その過程でインタビュー記事を見つけて内容に驚く。
私は自分の文章が誰かを傷付けることを恐れていたけれど、「表現する」というのはそもそも人を傷付けてしまうことだったのだと気付く。

odolの音楽文投稿(6月24日の朝)
odolの音楽文掲載(6月28日)



こんな感じでしょうか。


なんか、人生って同じようなことを何遍もくり返すんだなぁってつくづく思います。
言葉とか、伝えるとか、表現するとか、今までの人生で何度似たようなことで悩み、諦めそうになったことか。
その度に、言葉や表現に救われてきたか。

これは、何度目かの「言葉を諦めかけていた」自分が「言葉を取り戻す」きっかけになったライブに寄せて書いた文章なんですけど

思えば最近の私は言葉に悩んでいた。
自分のどんな言葉が誰かを傷つけうるのか分からなくて、口をつぐむことも多かった。
そうするうちに、自分の感情も上手く言葉にできなくなっていた。

趣味のブログも思うように書けず、どこへ行ったとか何をしたとか、そういう当たり障りなさそうなことしか書けなくなっていた。
それがダメなわけじゃないけれど、本当はもっと、自分が見て聴いて感じた気持ちなどを自分なりの言葉で書きたいと思っていた。

武道館公演を体験して、私の中に閉じ込められていた言葉たちが少しだけ自由になれたような気がしている。

〈信じてたこと 正しかった
amazarashi武道館公演(ライブビューイング)に立ち会って より〉

2018年に初めて音楽文.comに投稿した、amazarashiの音楽文からの引用です。今回と同じようなことで悩んでいる自分がいます。


「趣味のブログ」っていうのはここでも何度かお話しているアメブロのことで。
アメブロでは8年くらい(この間7年って書いたけど、8年だったっぽい)文章を…と言ってもほぼ日記のような文章を書いてきて。
その中で、2014年頃は私にとって今のところの人生でいちばんしんどかった時期で。
必然、ブログの内容もどんどん暗く重くなってっちゃって。
(厳密には、あまりに重いんでワンクッション……別アカウントを作って、それでも読んでくださる方はこちらも来てみてくださいという感じにしてました。本アカウントでは今まで通りなるべく明るく書こうと努めてたな。あの別アカウント今どうなってるんだろ。ログインの仕方忘れて放置してる)

その頃から、孤独感が増していったんですよね。
なんというか、とても周りの反応が怖くなった。
どうしたらいいか分からない、誰かに聞いてほしい、頼りたい…… でもこんな暗くて重い内容、しんどいよね。読みたくないよね。
それでもずっと読んでくれてたり、親身になってくださったり、そっと見守ってくださったりで今でも交流のあるフォロワーさんもいます。
でも、その頃から離れていってしまった人や、距離を感じるようになってしまった人もいて。
ああ、私のせいだ って思ってしまって。
いま思うと自意識過剰なんですけど。

実際には、私のこととは全く関係ない理由で離れてしまったのかもしれないけれど、自分に原因があるんだって考えてしまってどうしようもなかった。
(あの頃は私以外のフォロワーさんもけっこう何人かしんどそうだったし、いろいろ重なっていた時期ではあるんだろうな)

書くことで救われる自分と、書くことで孤独になる自分。そのアンバランスさで自分が本当に書きたいことがなんなのか分からなくなってって。
弱音や重い話は引かれる。本音は隠した方がいい。そんなふうに思うようになりました。

のほほんと、当たり障りなさそうなことしか書けなくなっていったんですよね。
おかげで心は少しずつ平穏を取り戻していったけれど、ある意味感情が麻痺してるかのような味気なさとか、大事なことに目を背けている後ろめたさみたいなものがずっとあって。それらに蓋をして書きつづけていました。
「虚ろ」って言葉がぴったりな感じ。

そんな私の目を覚まさせてくれたのが、2018年11月16日のamazarashiのライブ『新言語秩序』で。
「言葉を取り戻せ!」って何度も何度も叫ぶ秋田さんの姿に衝撃を受けて。

いくらライブに感銘を受けたからってそんな簡単に人は変われないかと思いきや、私はあのライブ以降少しずつでも確実に言葉を取り戻していったんです。自分でもびっくりだけど。
言葉を取り戻すことは、感情を……つまり心を取り戻すことでもあるなと思っていて、うまく処理できていなかった感情が言葉になって溢れ出てくる感じでした(まさに『新言語秩序』の実多ちゃんの独白みたいな)
そうやって少しずつ、自分を取り戻していったのです。

うれしくって夢中になっちゃって、どんどん自分の内面へ深く潜っていきました。
海とかも、深く潜ると水圧で苦しくなるじゃないですか。海、そんな潜ったことないけど。
心の中も、深く潜るとしんどくなるみたいです。

あ、なんか最近どんどん文章が重くなってる。大丈夫かな。読んでる人しんどくない?これ公開する意味あるのかな。
どうしよう、こんなことまで書いちゃったら引かれるかな。
もっと無害な、のほほんとしたことばかり書いたらいいんだよ。そうしようよ。
悪魔なのか天使なのかよくわからない囁きに、また自分を見失いかける……。

でも、ちゃんと自分で気付けました。
ああ、また同じことを繰り返してるぞって。
また私は言葉や感情を閉じ込めてしまうところだった って。

今回は「絵を描くこと」で自分を取り戻せました。
そして、その後に聴いたodolの新譜や読んだインタビュー記事で書き続ける決意を後押ししてもらったというか。

自分の言葉や文章で誰かを傷付けるかもしれないと思うと、怖いです。
けど、それでもやっぱり私は書きたいです。
誰も傷付けないなんて無理だろうけど、せめて言葉や表現を選んで、考えて、なるべく気持ちよく受け取ってもらえるように最善は尽くしたいと思います。
あとは、受け取った人のものなので。


また言葉や感情を閉じ込めたり、諦めたりしそうになるかもしれない。というか、ほぼ確実になるでしょう。
でも気付けたから、もうきっと多分大丈夫。

これからも、何度も似たようなことを繰り返すんだと思います。文章を書きつづける限り、表現を続ける限り、生きている限り。
でもその度に音楽や表現が私を連れ戻してくれるはず。

1回目より、2回目。2回目より、3回目……。
たまにちょっと戻ることもあるかもしれないけど、「三歩進んで二歩下がる〜♪」って、トータルで見たらちょっとずつ成長してるんじゃないかな。

しあわせの 隣にいても
わからない日も あるんだね
一年三百六十五日
一歩違いで にがしても
人生は ワン・ツー・パンチ
歩みを止めずに 夢みよう
千里の道も 一歩から
はじまることを 信じよう

(三百六十五歩のマーチ/水前寺清子)

↑3番の歌詞初めて知ったけど、いいですね。


今回のぐるぐる苦悩を抜けて(って言っても一時的なものだろうけど)心境に変化がありました。

ここ最近、とても心穏やかに過ごせているんです。
もともと家族以外には滅多にイライラすることはないんだけど、家でも落ち着いていられます。
周りが不機嫌でも流されず、気持ちを保ててる。
子どもたちの癇癪とかにも、あまり振り回されない。
ちょっとイラッとすることがあっても、すぐにおさまる。長引かない。

なにかキッカケがあったのかというと、特に思い当たる節もなく。
強いて言うなら、この間の絵を描いた辺りから…なんですよね。物理的には、髪をばっさり切ったりしたけど。それくらいです。

まるで出来ものが…あれ?腫れ物…いや、憑き物が(これだ!)落ちたかのようにすっきりとしています。

本当にずっと悩んでいたんです。
もう、いつからなのかも思い出せないけれど。
どうして私はこうなんだろう。こうなっちゃったんだろう。
頭ではこうしたい、こう言いたいと思っていてもまるで反対の態度や言葉が出てきてしまう。ごめんなさいって。
苦しいけど、誰にも言えないし。
どうしたらこの状況を抜け出せるのかずっと分からずにいました。めちゃくちゃ努力しなきゃ抜け出せないものだと思っていました。
それが突然すっと無くなったので訳もわからず驚いています。

一生このままでいられるとは思わないけれど(「大丈夫」って言った直後に大丈夫じゃなくなるあるある)なるべくこの感じを忘れずに、目の前のことに向き合いながら、みんなが穏やかに過ごせる日を増やしていけたらと思います。

いま心に吹いている追い風を覚えていたい。
大丈夫じゃなくなったときにも、思い出せるように。

こういうときに響いていた音楽ってすごく大切になるし、ずっと忘れないんだろうな。
今、出会えて本当によかったです。


ちなみに、アルバム『はためき』に収録されている全9曲、なんとYouTubeに公式動画があります。聴けます。
どれも素晴らしい曲なので、ぜひ聴いてみてください。
それでもし「いいな」と感じたら、ぜひアルバムを手に取ってみてくださいね(サブスクでも)

先日公開されたこちらのインタビュー記事もよかったです。
『はためき』というアルバム名に込められた想いに「なるほど」と思いました。


『はためき』を聴いて「やさしすぎる……!」と感じられた方には「GREEN」や「four eyes」をそっとオススメしておきます。
ヒリヒリしてて良いですよ(先に紹介した「人の海で」も)

↑最初のノイズ音、「声」なんですって。ギターかと思ってました。びっくり。

↑こういう曲もあるんですよって言いたくなるような曲。


私もまだ聴いたことない曲がいくつもあるので、これから出会っていくのが楽しみ。
皆さんにも何か一曲、ささる曲があったらうれしいです。


ありゃりゃ、音楽文と合わせたら結局1万字くらいになってしまった……。
最後まで読んでいただきありがとうござました。
ではではまた。

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