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「オイサラバエル」解釈考 樋口円香は何を見たのか

普段はいろいろな方の感想を読んだり感想まとめサイトのコメント欄で少しだけ書いたりしているだけでしたが、今回、初めてこういう形で書いてみることにしました。

というのも、コミュの内容が大変難しく、ここで自分で整理する意味も含めてかみ砕いていこう、と。

そのため、構成も決まっておらず書き進めることになります。
思ったことをつらつらと書いていく感じで。あくまで解釈の一つと考えてください。
また、初の執筆で書きなれていないため読みづらい点ご容赦ください。

以下、コミュのネタバレがあります。



舞台はどこかの屋内で、円香とシャニPが会話しているところから始まる。後の選択肢をすべて見て統合すると、どうやら山奥の廃美術館に撮影に来ていたPと円香。しかしながら撮影の準備に時間がかかり、さらには円香の携帯の充電が切れてしまったよう。
そして暇つぶしのために『面白い』話をPがすることになった。そんな流れのようだと思われる。

テーマは「なぜミロのヴィーナスは美しく感じるのか」。

ここで気になったのはこの発言。


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(オイサラバエル 『序』より)


円香は初め、像が魅力的に見えるのは、像の黄金比の構成によるものだと考えていたようである。

これは作中でも言われるように間違いではなく、事実この黄金比はミロのヴィーナスを美しいと言わしめている要因だと広く言われている。

ただしPはそれもあるけれど、と言って、『この彫刻の魅力は、多分、目に見える部分だけじゃない』と続けた。これは上の画像以前の話を集約した言葉にもなっている。
ご存じの通り、ミロのヴィーナスには腕が欠けている。Pはこの欠けた腕があるからこそ、ミロのヴィーナスは完璧になる。完璧なものは、目に見えないのかもしれないと語っている。

すなわち、円香は今目の前にある、目に見えているこの像の構成に着目している円香に対して、Pは目に見えない部分に着目したのである。

ミロのヴィーナスは腕がない。つまりは、腕の存在はその観測者によって自由に想像することができる。そして観測者によって想像され、補われた像が初めて、その観測者にとって『完璧』となりうる。すなわち、だれにとっても美しい、完璧であるためには、腕はあってはならないのだ。


こう考えると、円香のLanding pointでのライブMCが頭に浮かぶ。

『歌は耳で聞くものでなく、心で聞くものだと思います。皆さんの心を、魂を通して響く歌です。だから、世界に一つとして同じ歌はありません。今日ここで、あなたの歌を聴いてください』

なんてことはない。これは歌だけではなく、うつくしいもの全般に当てはまることなのだ。

そして、今回のコミュはそんな話。


うつくしいものの話。



廃墟、エントロピー

なんとも、理解できるようなできないようなタイトルである。エントロピーを軽く調べてみると、分野によって定義づけが若干異なるらしい。

ただ、エントロピーと聞いて私が真っ先に結びついたのはエントロピー増大の法則だった。物理は専門ではないが、確かエントロピーは不可逆的に、一方方向に増大し続けるみたいな意味だったはず。

ともするとこれは廃墟という建物の時間による一方方向に進み続ける風化を表現したものだろうか。


開幕、監督がこの場所について、独特な視点から解説している。

時間は、人が作ったものを壊すようにしかできていない。

これはまさしくその通りで、先ほどの風化もそうだが、人の作ったものは、人が管理していかないといつかは必ず崩れ去ってしまう。そして、人が作ったものから、徐々に自然が作ったものに置換されていくのだ。

秩序が飲み込まれていく。

「秩序」を辞書で調べると、『その社会・集団などが、望ましい状態を保つための順序やきまり。』とある。すなわち、これもまた結局は、人が作ったものなのである。人の作った順序やきまりは、やがては自然の真理に飲み込まれて行ってしまう。

そう考えると、確かにこの『美術館の廃墟』とはそういった場所であろう。廃墟はだれが作ったといえるだろうか。人が作ったのはあくまで建物だ。誰も廃墟を作ろうと思って作ることはしないだろう。では自然か。しかし、その基となっている建物は、やはり人間が作ったものといえる。自然は自然を作ろうとしていて、廃墟はその通過点に過ぎない。やがて廃墟が崩れ去り、木々によってそれが覆い隠されでもしたときにようやく、自然が作り出したものとなろう。

すなわち、廃墟とは人と自然の中間にある。それこそ、秩序が飲み込まれつつある場所なのだ。


これはあくまで監督の話を聞いた私の私見であり、監督の台詞の真意はわからない。それは円香も同じようで、つい『わかります』と答えてしまったものの、あまり理解ができなかった、というところから円香とPの会話は始まる。

どうやら円香の撮影した場所は廃墟の中でもまだ手入れがされていた部分で撮影がされたようで、その奥はもっとボロボロで、監督曰く、奇麗らしい

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(オイサラバエル 廃墟、エントロピーより)


おそらく、より強く自然へと還りつつある場所なのであろう。ただ、円香はどこが綺麗なのかわからず、「わかります」といった手前聞き出すこともできなかったようだ。

『意図を汲みたいと思ったことは嘘じゃないけれど』
『撮影は終わったので、別に、今更』

そう円香は言うが、本当は今も意図を汲みたいと思っているのだろう、そう考えたPはもうちょっとここでゆっくりしていていいよと提案し、円香もPがそう察して提案したことに気づいて『お気遣いなく』と答えている。

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その後のLPを踏まえた部分も含めて、この辺りの二人の会話。ちょっと高度すぎる。そりゃ小糸もこんな顔しちゃうよ。

それはともかく、椅子を探しにこの場を去るPとその場に残る円香。

円香はPに言っていた。

『監督と同じような気持ちにはなれるとは(思えないし)、多分理屈でもない』

ただ・・・

円香は大きく息を吸って、吐いて、そして目を瞑る。

ここでは選択肢で分岐がある。ただ、円香のコミュの場合はこれに限らず、大体それぞれが補完しあっていて、すべて見ないと分からないことも多い。裏を返すと、どの分岐でも世界線がほぼ変わらず、つながっているともいえる。

一番右は、目をつぶって思い描いた光景についてがつづられる。円香が目を瞑って思い描いたのは、賑やかであったであろう、かつての美術館の姿だった。人々の希望があふれ、未来が輝いていたのだろうと。円香はそんな「勝手な」想像をした。


一番左の選択肢。これは右とほぼ同じ、そして補完である。この建物の始まりを見て、人々の希望があふれ、未来が輝いていたのだろうと想像する。もちろん未来を輝かせている時に終わりを想起することはないだろうし、ともすれば終わらせたくないとも思っていたかもしれない。それでも円香は知っている。その光景が終わることを。廃墟となる未来を。


真ん中は、開口一番、この廃墟を好ましいとは思えないと告げている。好ましいとは思えない、つまり監督のように「綺麗」とは思えなかったのだ。

ただ、円香は続ける。

『今はないということは、かつてあったということ
かつて、あって、今はなくなってしまったものは
どれほど』

多分、これが現代文の問題だったら、ここが出るんじゃないですかね。一体何がなくなって、そして、結局なくなったものに対して、どう思っているのか。このセリフが『けど』と、逆説でつながっていることから、おそらく最後の結論は『どれほど、奇麗だったのだろうか』ではないだろうか。ただ、結局何がなくなったのかは、この選択肢だけでは難しい。ただ、ほかの選択肢でも、結局円香は同じ行動をしており、補完しあっているのだと仮定すると少し見えてくる。

かつてはあって、今はないもの。

それは、かつての美術館での光景。人々の希望があふれ、未来を輝かせていた、その『輝き』ではないだろうか。
かつてあって、今はなくなってしまった輝きは、どれほど綺麗だったのだろうか・・・そんなことを円香は思っているのではないだろうか。そして、一番右の選択肢では、そんな想像をした自分を疎ましいと述べている。

円香が綺麗だと思っているのは、「かつて」の光景。今の光景ではないのだ。これは後程の円香の述懐でも語られるが、今ではなく、過去にしか目を向けられない。まるで老いさらばえた老婆が、かつての若き頃を夢想するかのように。それが円香には嫌だったのではないだろうか。


ただ、そうするとここでの円香は一つ勘違いをしていると思う。

廃墟の美しさは、もともとそうしたかつての輝きを飲み込んだものであるのではないだろうか。そうしたかつての憧憬をひっくるめて、廃墟の美しさになるのではないだろうか。すなわち、このかつての憧憬はミロのヴィーナスの両腕に当たるのである。
私は、松尾芭蕉の句が思い出された。

夏草や 兵どもが 夢のあと

ここで詠われている光景は、夏の草花である。ただ、そこはかつて兵たちが栄華を極めた場所であった。だからこそ、その何もない草が生い茂る光景に儚さを感じられ、うつくしいと思うのではないだろうか

すなわち、結局は円香も、廃墟の「うつくしいもの」に触れていたのではないだろうか。


ドライフラワー

今回のコミュは雑誌のインタビューから始まる。おそらく、途中で入るカットインは雑誌の撮影であり、そのカットに関わるインタビューなのだろう。

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(オイサラバエル ドライフラワーより)

それにしてもこの営業スマイルは反則でしょう。そりゃあファンは増えますって。

インタビューでは、このカフェのドライフラワーについて語っている。上の優しい笑みに加えて受け答えも丁寧な印象だ。そしてインタビュー後にPとの会話(回想?)という構成だが、インタビュアーとPとで円香の語るドライフラワーに対するとらえ方に少しギャップがあるように思えた。よく読んでみると、円香のドライフラワーに対する考えは一貫していることがわかる。

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(オイサラバエル ドライフラワーより)


インタビュアーと話している時の円香は、一見ドライフラワーを手放しに誉めているように思える。いや、実際に褒めてはいるのだが、それは「綺麗な生前の花」の様子をそのままに残しせている技術に対してであって、ドライフラワーを「綺麗」とは言っていないのだ。
例えるならば、モナ・リザのレプリカを見て「本物そっくり」だと褒めるようなもの。すなわち、樋口円香はドライフラワーに「美」を見いだせていない。少なくとも円香自身はそう思っているのだ。

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(オイサラバエル ドライフラワーより)



ノンフィニート

恥ずかしながら、この単語は初耳であったので、ネットで調べてみた。すると、世界大百科事典によると美術用語で「終わってない」を意味し、『芸術作品に関して,意識的な〈未完〉の状態のままに置くことによって,独自の芸術的効果をあげる技法について用いられる。』ようだ。


今回のコミュではもはや見慣れた、Pと円香との車内での会話から始まる。どうやら雑誌の撮影は短期集中連載のようなもので、もうすぐで終わるようだ。

円香とPとの会話と、円香の心情の吐露が交互に挟まる。こういう、円香の心情描写はいつもかなり重い。だがこういった心情描写は樋口円香という人間を深く知るいい手掛かりとなる。

『ねえ』
『あなたの言葉は
一体、どこまでが本当なの?』

一瞬、またガラスの向こうのこちらにまで目を向けた発言でドキリとしたが、円香がこのように思ったのは、先ほどのインタビューがあったからではなかろうか。

私は、円香とPはどこか似た者同士ではないかと思っている。
誠実で、どこか青臭く、そして普段は本心を抑え隠している。

円香の先ほどのインタビューでもそうだ。丁寧に受け答えをし、決して嘘は言っていないがそれでも大切な部分を隠している。そんな円香だからこそ、Pとのやり取りでは常に本心を隠して受け答えしている自分の姿がフラッシュバックしているのではないだろうか。

そして、吐露はこのように続く。

『あなたは
欠けた部分に完璧を見るの?』
『ねえ
あなたは、おそらく』
『あなたは欠けたものを
そのままに愛する人では』
『過去ではなく今を見る人では』
『枯れた花を、枯れたまま美しいを思う人では』

初見時、「うひー」といううめき声を抑えられなかったことを覚えている。序にて、Pは『この彫刻の魅力は、多分、目に見える部分だけじゃない』とミロのヴィーナスを語っている。不完全だから、完璧だと。だがこれはあくまでPが語り聞いた話であり、一般論の話だ。
Pは『欠けているから美しい』のだと思うのでなく、『欠けているのも含めて美しい』と思うことができる人なのではなかろうかと。

廃墟、エントロピーにて、円香は廃墟の美術館にかつての輝きを想像して、それがどれほど綺麗なものだったのだろうかと述べている。
しかし、Pはそんな過去は関係なく、今のありのままを見て、美しいと思えるのではなかろうかと。

ドライフラワーにて、円香はドライフラワーを、生きている花を想起させる『枯れた』ものとしか思えていなかった。
しかし、Pはドライフラワーをドライフラワーとしてそのまま美しいと思える人ではなかろうかと。

『私と違って』

この言葉は、心情ゆえに飛び出る、円香の自白と言っていいだろう。これまでの解答ともいえるのではないか。すなわち先ほどの投げかけの反対(もしくは否定)が、円香がこれまで各場面で思っていたことであるということを示している。


さて、話は今日泊まる宿のところまでたどり着くところにつながる。あたりはすでに暗くなりかけている。

ここで再度選択肢。
ここではおそらく、Pの行動でなく円香の心情がまた重要な部分であろう。

一番左ではこう語っている

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(オイサラバエル ノンフィニートより)

一番真ん中ではこう。

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(オイサラバエル ノンフィニートより)

一番右はこのように語っている。

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(オイサラバエル ノンフィニートより)

これもまた、3パターンの独白を見て、初めて円香の心情がわかるようになっているのではないだろうか。

諸行無常、盛者必衰。
極まったものは、いずれは衰える。
目に見える形のあるものは、そんな時間から逃れる術はない。
そして円香は、そんな衰えたものを美しいとは思えていない。
それゆえに、完璧なものは、完璧がゆえに、完璧ではない。
ただ、形のないものは時間にとらわれることはない。
であれば、不完全なものは、その不完全な部分は目には見えないゆえに時間にはとらわれない。それゆえに、完璧となる。永遠に、エターナルに。

だから、結局、うつくしいものは──どこまでも目には見えない。

そして、樋口円香はプロデューサーの本心が見えていない。だから円香は知りたいのだ。そのスーツの下を。

知って、安心するために。



美しいもの

『朝が来る』
『花が開く』
『土が湿る』
『透き通る』

開幕、円香による情景描写が入る。
これまで廃墟の美術館、ドライフラワー、連載完結、日暮れとどこか「終わり」を連想させる中で、初めて「始まり」が想起される言葉が出たような気がする。これは、先ほどのノンフィニートの一番左の選択肢の描写と結びつけられる。

『日は沈む
花は枯れる』
『極まったものは衰える』
『完璧なものは、完璧だから
完璧ではない』
『なら、不完全なものは』

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(オイサラバエル 美しいものより)

これは先ほどのノンフィニートで述べたとおりである。得た結論を、再度円香の中で言語化しようとしているのだ。そして円香は続ける。

『形ではなく、その奥を見る』

そして今回のコミュで、Pは円香からドライフラワーを受け取って、こう言った。

『円香をイメージしてつくってくれたんだよな
わかる気がする、円香を感じるよ』
『なんというか・・・』
『この花が持つ魂というか──』
『うん、やっぱり』
『目を閉じたほうが、
この花が見える気がする』


プロデューサーは、この花に円香の魂を感じていた。そして、綺麗なドライフラワーと評していた彼は言った。

目を閉じたほうがこの花が見える気がすると。

なんてことはない。
プロデューサーが欠けたものを欠けたそのままに愛せるのは、過去ではなく今を見れるのは、枯れた花を、枯れたまま美しいを思えるのは。


今そこにある形あるものではなく、その奥を見ているからなのだ。

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(オイサラバエル 美しいものより)

そうして、円香は至った。

「うつくしいもの」についてを。

そして、至った円香は再度考える。形あるものの、奥を見る。

『朝が来る』
『水が滴る』
『酸素が満ちる』
『透き通る』

『透き通る』

『透』

『き』

『と、お──』

円香がその奥で『見た』ものは──。


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(途方もない午後より)

私は今回のオイサラバエルを読んで、この透のコミュが思い出された。

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(途方ない午後 所感:がんばろうな より抜粋)

かつて、透は悩んでいた。自分としては全然よくないのに、周りに勝手に「いい」と肉付けされていくことに。「よくない」と感情を爆発させていた。
全部が「いい」方に肉付けされていく。その人にとって、完璧なものが形作られていく。それはまるで、ミロのヴィーナスの欠けた両腕のように私は思えた。

浅倉透はお世辞にも完璧とは言えない。

奢るって言ったのに財布忘れるし、生放送で童謡みたいなの熱唱するし、旅に出るし、赤ジャーで写真に写るし、映画館で叫ぶし、メイド服でカートに乗るし、掃除当番忘れるし・・・

だがそういったところも、いや、そういったところが浅倉透の魅力であると私は思っていた。
ゆえに今回の「うつくしいもの」で、私は彼女の透明の源泉を見た気がしたのだ。

ちなみに、奇妙な偶然といっていいのか、このカードの思い出アピールは

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蛇足

ところで、円香はかつて、こういっていた。

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今回のコミュでプロデューサーの本心が見えないと言っていたのに対し、浅倉透の「理解」に対して円香は絶対の自信を持っていた。

自分には浅倉透が見えている、と──。


つまり、『アイドル 浅倉透』の姿をもし、うつくしいと思っているのならば、それはおそらく──。






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