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コロナ禍に生まれた小さな命

こんにちは、エミリーです。

現在、天狼院書店の「「超」ライティング・ゼミ」を受講しています。そこで週に1回提出している記事をこちらにも投稿しています。

今回、8/30締め切り分の第21回の課題を投稿します。5回目の5000字、果たして今回はホームページ掲載されるのでしょうか。


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「おぎゃあ、おぎゃあ」
麻酔で薄れる意識の中、小さいけれど確かに力強い産声を聞いた気がした。
少しだけ赤ちゃんに触れることができた。
あたたかい命を感じた。

令和2年4月。
初めての緊急事態宣言が出された。

多くの会社やお店が休業したり、学校が休校になった。
未知のウイルスにどう対応していいか誰もわかない、そんな混沌とした状況だった。

私はそんなコロナウイルスが初めて確認された頃、
第2子を妊娠中だった。

第1子の時はつわりや足の痛みなどの小さなトラブルがあったが、出産前日までほぼ順調だった。
骨盤が狭く赤ちゃんの頭が通るのが難しいので、
帝王切開での出産が決まり、出産予定日の翌日にすることになった。

帝王切開の前日から入院したが、血圧がかなり上がってしまった。
そういえば、私の母も高血圧だと言っていたが、まさか自分もそうなるとは夢にも思わなかった。

無事出産は終わったが、普通は下がるはずの血圧は下がらなかった。
1ヶ月程度、降圧剤を飲んで過ごすことになった。

喉元過ぎればなんとやらで、そんなことがあったことをすっかり忘れていた。
今回もつわりがあり、新たに妊娠糖尿病と言われ食事制限はしていたが、
日常生活には支障がないのでバリバリ仕事をしていた。

でも時折、目の奥が痛む感じがした。
「スマホの見過ぎかな……」
なんて思っていた。

ところが妊婦検診で、
「血圧が高いので、毎日家で測ってください。
 場合によっては入院ですよ」
と主治医に言われてしまった。

まだ、出産予定日までは2ヶ月ある。
前回は出産予定日まで血圧が上がらなかったので、
「今回も大丈夫だろう」とたかを括っていた。

でも、そううまくはいかなかった。
仕事もあるし、長女のお世話もある。
なかなかゆっくりすることもできなかった。

当然血圧は下がるどころか上がっていた。
次の診察で「重症の妊娠高血圧症候群」という診断名がついた。
仕事も休むことになった。

妊娠高血圧症候群は、ひと昔前に「妊娠中毒症」と言われていたので、
その名前の方がピンとくる人もいるかもしれない。
これになってしまうと、血流が悪くなるので、おなかの赤ちゃんに栄養や酸素が行き渡らず、発育不全を引き起こすことがある。
そのために、早産や死産、低体重児(2500g未満)になってしまう可能性がある。
ただ、赤ちゃんの血圧が下がってしまうので、降圧剤を飲むことはできない。
なので、安静にするしかないのだ。

入院はしたくなかった。
コロナ禍で面会もできない孤独な状態で入院するのは避けたかったからだ。

仕事を休んで家にいて、家事も最低限に、保育園の送迎も夫に頼んだ。
それでも血圧は下がらなかった。
自分の体調と先が見えないコロナ禍、両方がのしかかっていた。
息苦しさをよく感じて、ベランダから春の空を眺めていた。

希望に満ちた2020年になると思っていた。
いつもと変わらない日々がくると思っていた。
なのに、どうしてこんなことになったんだろう……。

主治医からは再度入院を勧められた。
長女のお世話を理由に断ったが、
「日中家に1人でいるんでしょ?
 高血圧のせいで急に意識を失ったりしたら危ないよ」
と言われた。

そんな中、Twitterでこんな記事を見つけた。
「妊婦さんが自宅で早産してしまった。
 コロナのせいで救急車がくるのが遅れて、
 赤ちゃんが助からなかった」

この2つで入院を決意した。
病院にいれば、自分や赤ちゃんに何かあったとしてもすぐに対応してもらえる。

でも、入院の孤独感はやはり私の気持ちを不安定にした。
「寂しい。家族に会いたい……」
そう思ったら、涙が止まらなくなり、血圧も上がってしまった。

血圧が急に上がったことで、大部屋からMFICUという妊婦さんのICUにうつされた。
ICUと言っても普通の個室だったので、これはラッキーだった。
ひとりで気ままに生活できたし、部屋でTV電話をして家族に会うことができた。

ただ、感染症対策として、面会や荷物の受け渡しなどで直接家族に会うことはできなかった。
孤独な日々。
窓には格子がついていて、閉じ込められているようだった。

この時点で妊娠週数33週。
今産まれてしまうと肺などの機能が未熟なままになってしまう。
もしこのあと状態が悪化して急遽出産になったら困る。
念のためということで、赤ちゃんの肺の機能の発達を促す筋肉注射を打った。
点滴と筋肉注射の影響で微熱状態で苦しかった。

正期産と呼ばれる出産しても問題ない週数まであと4週間あった。
「このまま1ヶ月入院するのかな……」とぼんやり考えていた。

そんなことを考えていたら、主治医がやってきた。
「このままの血圧が続くと赤ちゃんが危ないので明日出産しましょう」
「え、明日!?」
「本当は34週になる土曜日まで待ちたかったけど、NICUの体制を考えたら明日の金曜の方がいいかなって」
やっぱり早産時だから赤ちゃんはNICUに行くことになるのかと理解した。
「わかりました」
「じゃあ、旦那さんに連絡して来てもらってね。
 あと、これからPCR検査をします。別にコロナを疑っているのではなく、
 入院している妊婦さん全員にやってもらっています。
 母体が陰性なら赤ちゃんも陰性として扱うことができるので」

そっか、確かにコロナだったら危ないもんね。
しばらくすると、防護服を着た医師がやってきた。
「インフルエンザの検査と同じ感じですよ」
と言われた。
鼻に刺すのが結構痛かった。

それからは気持ちが落ち着かなかった。
大慌てで、夫や両親に連絡して、急いで名前も考えた。
6月生まれらしい名前を候補に挙げていたが、
急遽4月生まれらしい名前を考え直した。

一方でまだ赤ちゃんの体重が1500gしかないこと、肺の機能がまだ完成していないこと、母体からの免疫の移行が十分でないことを知らされた。
Twitterで早産時の情報を片っ端から調べた。
中には1500g未満で生まれた子もいた。
障害が残ったり、何度も手術しなければいけなかったりと
あまり明るいニュースはなかった。

「ごめんね、もっとお腹にいたかったよね。
 予定日までいさせてあげられなくてごめんね
 ダメなママでごめんね」
そう思いながら、泣いた。

でもその時ふと気づいた。
「あれ、今日赤ちゃん、あんまり動いてないかも」
興奮していたのであまり覚えていないけど今日は胎動が少なかった気がする。
心配になったので、寝る前に来てくれた看護師さんにその旨を伝えた。

すぐに心音を聞く機械を持ってきてくれたが、赤ちゃんの反応があまりなかった。

「どうしよう、もっと早く気付いてあげればよかった。
 お願い、どうか無事でいて!」
祈る思いだった。

宿直の先生が来て、超音波で見てくれた。
「うん、とりあえず大丈夫だよ」と言ってくれた。

「あと1日お腹の中でがんばろうね」
お腹をさわりながらつぶやき、安心して眠りにつくことができた。


翌日、手術のときがきた。
長女は病院に入れないので保育園にお願いし、夫だけが病院にきた。
ただし、会えたのは病室から手術室までの間の一瞬だけだった。
「がんばってね」
そう優しく声をかけてくれた。

手術が始まって程なくして、小さいながら力強い産声が聞こえた。
その後は眠らせてもらったので、意識が朦朧としていた。
「この先はどうなるかわからないけど、とにかく無事に生まれてよかった」
そう心から思った。

それからひとりの病室に戻った。
もうお腹にいないと思うと不思議な気持ちだった。

術後は、麻酔と痛み止めの影響で頭がぼんやりしていた。
スマホを触ることさえ億劫だった。

生まれた子がどうしているかもよくわからなかった。
「今赤ちゃんはNICUにいますよ。小児科の先生が何も言ってこないなら大丈夫な証拠ですよ」と看護士さんが教えてくれた。

力を振り絞ってスマホを見たら
夫から「ありがとう、がんばったね」の言葉と、
まだPCR検査の結果が出てないから今日は赤ちゃんに会えなかった旨の連絡があった。そして、1500gの体重の女の子だったと知った。
大体3000gで生まれる子が多く、予定日までお腹にいた長女でさえ2300gはあった。
予定日より1ヶ月半早く産まれたこの子は本当に小さかった。

翌日、無事PCR検査の結果が陰性と出たことで夫は我が子に会えたようだ。
写真を送ってくれた。

保育器に入り、小さい体にたくさんの管で繋がれて、機械に囲まれていた。
肌の色も赤黒く、手も足も細くて、小さめのオムツがブカブカだった。
それでも懸命に生きている。
そのことに感動した。

でも、ふとTwitterでの低体重の子の生活を思い出す。
「この子は健康に生きられるのだろうか。私のせいだ……。ごめんね」
そう自分を責めた。
家族以外には誰にも出産報告ができなかった。
管だらけの写真を見せたくなかったからだ。
別に恥ずかしいことじゃないのにそう思ってしまった。

出生届を出すために名前をつけなければならない。
考えた末に
「柚子(ゆず)」
と名付けた。

ゆずの花は5〜6月に咲く。少し早いがいいだろう。
何よりゆずの花言葉が「健康美」だ。
コロナ禍に1500gという小さく産まれた命。
どうか健康に育ってほしいという願いを込めた。

名前のおかげか、その後は順調だった。
管が少しずつとれていった。
自分で呼吸すること、母乳を飲むこと、排泄をすること、
ができるようになってきたからだ。

そして、1ヶ月半が経ち、当初の出産予定日の頃に退院することができた。
祖父母にも数ヶ月ぶりに会うことができ、2人目の孫の誕生をとても喜んでくれた。

早産時ならではの、栄養を補う薬を毎日与えたり、1ヶ月に1度RSウイルスを予防する注射を打ったりと長女のときとは違うことがあったが、元気に過ごしていた。

令和3年夏。また何度目かの緊急事態宣言が発令された。
柚子、1歳4か月。
言わなければ誰にも1500gで生まれたとわからないほど、大きく成長した。
他の4、5月生まれの子よりは遅いが、少しずつ歩き始めている。

柚子が順調に育っていることは本当にありがたいことだが、
コロナ禍での出産・育児は本当に大変だった。

でもまだ終わっていない。
先日また、「救急車が間に合わなくて自宅で早産してしまった赤ちゃんが助からなかった」という記事をみた。

妊婦さんはこれまで以上に無理せずに過ごしてほしい。
早産や持病など何か危険な兆候があり、病床が許すなら、
私のように渋らずに入院を選択した方が安全かもしれない。
これから生まれてくる命がコロナのせいで失われないことを心から祈っている。

生まれた時からコロナのある世界に生きている子。
柚子は、生まれたときからみんながマスクをしているのが当たり前の世界で生きている。
家族以外の大人がマスクなしで話すところを見ていないのだ。
どうか1日でも早くみんながマスクなしで笑い合える日が来ますように。

ーーー本文ここまでーーー

今回は残念ながら掲載となりませんでした。

ただ、自分の出産の振り返りができたのはよかったなと思いました。

コロナ禍で出産・育児をされる皆さん、どうか体調優先で無理せずお過ごしください。



ありがとうございます

エミリー


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