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最近考えていること

ロシアのウクライナ侵攻が始まってから、いろんなことを考えています。今まで考えたことのなかったことを、自分の生活に起こり得ることとして考えるようになりました。


ウクライナのキエフには友人のダリアがいます。パリで一緒にアパートをシェアした友人で、一緒に住んだのは数ヶ月だったけれど人生のうちのとても密度の高い瞬間を共に過ごした大切な友人です。


正直に考えると、もしもキエフに友だちがいなければ、毎日ここまで心を痛めることはなかったでしょう。自分の無関心さと冷たさに気づいて悲しくなります。


だってウクライナだけじゃないのです。世界中で今も起きている争い。世界に目を凝らしてみたら、至る所でいつも紛争や争いが起きていました。そのことを知っていながら、今までどこか自分とは関係のないことと思ってしまっていました。

それに自分の周りにだって困っている人はいる。パリのメトロの中でお金を恵んでくれるよう頼んでいる人、路上で生活している人、見えない貧困、周りには困っている人がたくさんいる。けれど自分は何もしていません。目の前にいる困っている人に無関心になることができ、自分には関係のないことのように、あたかも見えていないかのように生活してしまっています。



友だちがキエフにいる、だからロシアのウクライナ侵攻は自分と関係のないこととは思えないだけ。戦争には反対です。でも平和のためとか困っている人や傷ついている人を助けたいとか、そういう大きな正義の意識ではなくて、ただただ友だちのために何かできないか、何ができるか、と言う気持ちなのだと思います。



朝目が覚めるとインスタグラムでダリアの投稿を確認するのが新しい日課になりました。サイレンが鳴り響いている街の様子。地下に避難している様子。戦争への怒りを訴える様子。


無事を問うメールを送るとき、指が止まります。なにを伝えたらいいんだろう。
実際に命の危険がある状況下にいる人に、私はなにを言うことができるのか。
大丈夫?って、大丈夫じゃないのはわかっている。
彼女と彼女の家族や友人の無事を願う言葉を書いて、思います。これじゃあそれ以外のウクライナ人のことはどうでもいいみたいにならないか?
こんな時、相手を思い遣る言葉が見つからず、なにを書いても空虚に響きます。



ある日彼女の投稿を見て、ハッとしました。

キエフを離れた方が良いと言われるけれど、それはやめてほしい。それより私の選択を、今やっていることを応援してくれる方がいい。
同情するならお金を送ってくれ。
本当にそうだよなと、今まで冗談のように笑って使ってきたドラマの有名な台詞が現実として重たく響きます。




戦争が始まった日、私ならすぐに逃げるだろうなと思いました。
でも祖国を愛する気持ちは想像することができます。
自分たち全員が逃げ出したら自分の国が他国に支配されるかもしれない恐怖は、どんなものなのか。
現地にいる当事者として自分が今ここで何かしなきゃと行動をおこす力には尊敬の念を抱きます。
だから例えダリアに逃げてほしくても簡単に逃げてとは言えない。
命があってこそだと思います。でも彼女に逃げてと言って彼女の国がロシアに占領されてしまったらどうなるのだろうかと考えます。全ての言葉が重いです。

それに逃げたくても逃げられない人もいるでしょう。戦争が迫る危機を感じても、実際に攻撃が始まるまでは、自分の家や今まで築き上げてきた生活の全てを置いて不確かな中逃げるという決断をすることはとてもとても難しいことだと想像します。
もうその街に、その国に戻って来れないかもしれないのです。逃げなきゃと思ったときにはもう戦争が自分の町に迫っていて、逃げることさえ危険かもしれません。

18歳から60歳の男性はウクライナから出られなくなりました。もし自分のパートナーが国から出られなくなったら、自分ならどうするか。今パートナーを置いて国を去るともう二度と会えない可能性だってある。
それに病気や高齢など容易に動けない人や動けない家族がいる人もいるでしょう。
逃げると言ってもどこへ行っていいのか。何を持って逃げれば十分なのか。
混乱の中、情報が手に入りにくくどこへ行っていいかわからない人もいるでしょう。誰にも頼れない人だっているかもしれません。
逃げるという選択肢だって簡単に誰にでも選べるものではないのだと思うと胸が痛いです。



避難所の様子を見ては、もし自分がそこにいたらと考えます。
地下の陽のあたらない場所に見知らぬ人たちと隠れること。新鮮な空気を吸いたいと書くダリアの言葉が身にしみます。
シャワーだってなかなか浴びられないし洗濯もできないから着替えることもままならない。トイレに行くのにも不自由するのかもしれない。生理用品は手に入るんだろうか。食べ物だってなかなか選択肢がないだろう。
常備薬が必要な人はどうしているのだろう。入院していた人たちはどれだけ不安だろう。妊婦さんはどうしてるんだろう。生まれたての赤ちゃんを抱えた人たちはどれだけ心細いだろう。
そういう生活の詳細を想像すると苦しくなります。


ウクライナで戦争が始まって、数日間はただただ気分が落ち込んで無力感に苛まされるだけでした。
でもキエフにいるダリアが料理を作り届ける活動をしたり、寄付金を集めて現地の人たちにお金や必要なものを届ける活動を始めたのを見て、私も何かしなければと、具体的に動くことにしました。少しのことでも具体的に動く方が、ただ気分が暗くなっているだけよりも遥かに前向きです。それに、何もできないけど、とは言いたくない。



誰かを助けるためとかじゃないかもしれない。何もしない自分に耐えられなくなったから、自己満足のために寄付しているだけかもしれない。それでも何かする方がよっぽど良い。少しでも誰かの役に立つかもしれない。
そう思って、ダリアの活動を助けるためにお金を送金したり、ウクライナとポーランド国境へ支援物資を届ける団体に食べ物や医薬品を持って行ったり、署名活動に参加したり、情報をsnsでシェアしたり、できることをしています。それだけです。それだけですが、できることを続けていく。微々たることだし、偽善かもしれないけれど。



世界中に困っている人がいても問題なく日常生活を続けていけるくらい自分は冷たいと思うし、インスタグラムでウクライナの様子に心を痛めた次の瞬間、美味しそうな料理の写真にいいねを押せる自分にギョッとしたりする。でも日々の営みを大切に続けることが、他の人の生活を想像し思いやる気持ちを育むかもしれない。自分のことを冷たくて無関心だと思うけど、そんな私でもキエフで避難民たちを助けようと働いている友だちを見たら何かせずにはいられなくなるのです。

捨てたもんじゃないかもしれないと思えます。


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