選ばなかった人生を、選べなかった人生を
地元に帰ってくると、幼稚園や小学校からの友達に会えるのが楽しい。
同じ学校に通う小さな子供だったことが懐かしく、小学校へ続く坂道を毎日お喋りしながら歩いた時間を思い出す。同じ街に育った私たちは、みんな同じようなものだと思っていた。でもその時からみんな違う方向を向いていたのかも知れない。少しづつ、それぞれが自分の足で歩き始めた最初の一歩は小さくて、違いなんて全然感じなかった。ところが20年も経つと、全く違う人生を歩んでいる。その振れ幅の大きさに驚く。
小学校からの友達たちには、幼い頃の自分の一部を預けているような、預かってもらっているような感覚がある。それは決して価値観や趣味が自分と似た人たちという訳ではない。むしろ価値観や趣味は全然違う。でも同じ場所で育ったという物理的かつ心理的な近さは、それぞれの同級生が自分のなり得た自分であるかのような感覚を生む。ほんの小さな子供だった頃の思い出や記憶を共有しているということは独特な愛着となる。
幼馴染と会って近況報告をしあったり、懐かしい同級生たちのその後の話を聞く。みなそれぞれに異なる多彩な人生を歩んでいる。
それぞれの人生は、私の選ばなかった人生であり、選べなかった人生であり、そしてそんな選択肢があるなんて想像すらしなかった人生なのではないかと、ふと思う。私の歩んでいない道や歩めなかった道は、他の誰かが歩んでくれているのだ。そう感じてなんとなく安心した。
みんなが同じ道を行くよりも、異なるいろんな道を選ぶ人がいる方が面白い。だから私は私の選んでいるこの道を進んでいったらいいんだなと安心した。
選べなかったり選ばなかったりした道は、他の誰かがちゃんと担当してくれているから。
地元の同級生たちの近況を聞いていると、自分の一部が私の知らない場所で芽生え、私の知らない経験をしてくれている。そんな嬉しい気持ちになった。
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