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桜の木が切られる

撮影で郊外にあるアトリエのような場所に行った。”アトリエのような”というのはなんというか、”アーティストレジデンス”的な趣向の住居兼アトリエとして使われている3階建ての小さなアパートに、庭と元工場のような打ち捨てられたスペースがある場所なのだけど、アートというよりは廃墟に近い空間だった。

元工場のようなスペースはフォトジェニックだし、庭には巨大な桜が堂々と鎮座していてかっこいい。でもアトリエ住居は、一歩入って決してここには住みたくないなと思うに十分な場所だった。というのも、ここはオーナーが亡くなって売りに出されていた物件で、最近買取主が決まったばかりなのだという。だから誰も手入れをしてこなかったのだろう。生気のない悲しい気持ちになる建物だった。

でも写真を撮る分には元工場と庭は絵になる。なんといっても桜の木が良い。


両手を伸ばしても届かないくらい立派な幹を持った桜の大木。
よく見てみると、幹から伸びる主要な太い枝のうちの一本が根元からバキリと折れている。緑色のさくらんぼがたわわに実った、何メートルにも広がる太い枝。自分の重みに耐えられなくなって折れてしまったのだろうか。風が強い日があったのだろうか。どうしたのかと思っていると、この場所の管理をしているお兄さんがポツリと言った。


「今年は桜が満開になって、いつも以上に綺麗だった。多分今年で終わりだって桜も知っていたのかもしれない。だから花を咲かすのに全力を使ったんだろう、花が散ったある日、突然折れてしまったんだ」

何十年と生きてきたであろう経験豊かな大木でも、突然折れてしまうことがあるんだな。でも今年が最後ってどういう意味なのか、よく分からない。不思議な顔をしていると、お兄さんが続けた。

「ここを新しく買い取った人が、庭にある木を全部切り倒して更地にしてテラスをつくるんだ。だからこの桜の木ももうすぐ切り倒されるんだよ」


思いがけない返答に、一瞬理解が追いつかなかった。


桜の木がここまで大きく成長するのに、一体どれだけの時間がかかったことだろう。桜の花、綺麗じゃないか。桜でなくても良い、大きな木の近くに寄るのはそれだけで心地良いものだ。それをどうして切り倒してしまおうと思えるのだろう。人間というのはどうして間抜けで取り返しのつかない生き物なのだろう。



庭には柿の木もあった。見たことのない花が咲いていた。緑があった。
もうすぐ全て刈り取られる。


撮影の後、折れていた桜の枝から新芽の生えた小枝を何本かもらって帰ってきた。水に挿し、もし根が出たら土に植えたい。




パリの郊外にはソー公園という巨大な庭園公園があって、何本もの桜の木が植っていることで有名だ。SAKURAやHANAMIというカルチャーはフランス人にも広まっているようで、花見をしにやってくる人は年々増えているらしい。
今年も桜が満開の日には大勢の人が集まっていて花が見えないくらいだったと在仏日本人のブログで読んだ。

公園という囲われた場所に守られた桜を愛でに人々が集まるとき、名もない庭で一本の桜が切られるのを誰も知らない。皮肉だなと思う。





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