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シリーズ 昭和百景 司馬遼太郎が追いかけた “草原の巨人” 飯塚浩二 遥かなり

 現在、飯塚浩二の著作を求めることは難しい。以前、岩波現代文庫から飯塚の主著のひとつである『日本の軍隊』が復刊されたが、すでに在庫は乏しい。

 同書はかつて初版が東大出版会から刊行されて以来、長く名著として語り継がれてきたものだが、しかし飯塚の思想的ステージの特筆すべきは、むしろその時代的風潮にともなう反省的立場に立ったシステム論であるよりは、『日本の精神的風土』や『東洋史と西洋史のあいだ』といった著作に顕在する、それまでにない人文地理上の視点を日本の学問的風土に持ち込んだ点にあるというのが小生の理解である。

 それは後に、司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズにおいて大衆化される踏査的文芸ルポルタージュの原体験とも原風景とも呼びうるものであったといっても過言ではない。実際、『街道をゆく』を丹念に辿れば、その文脈において飯塚の名が登場する。

 もとより飯塚の名前は生前、決して小さなものではなかった。飯塚はその晩年まで、東大東洋文化研究所の所長として、和辻哲郎、大塚久雄、丸山眞男らとならぶ同時代思想家の巨人のひとりとしても知られていた。

 社会科学の巨匠と目されていた飯塚にあって、現在でも長く読み継がれる他の思想家と異なっていたのは、その体験的思索の徹底さにおいてであったと、小生は評価する。

 後にその体験的学芸観とも呼ぶべきものは、司馬遼太郎という文芸的素質に優れた著作家の登場を待ってまさしくその方法論・視点を大衆のなかで爆発的に展開させることになる。

 しかし、司馬以外にも、飯塚浩二が先鞭をつけることによって可能になった日常的な果実も少なくない。

 たとえば、伊藤忠太という建築家がいるが、彼は法隆寺の柱がローマ帝国時代に特徴的な柱状構造「エンタシス」に近似し、それがはるかローマから小アジア、シルクロードを経て奈良、日本へともたらされたことを指摘した日本人である。
 
 伊藤はそれを「法隆寺建築論」というかたちで著し、築地本願寺などの設計で体現させるが、その法隆寺の建築様式が大陸から日本に渡ったことを踏査したのも、飯塚によるいわば「等質的文化比較」の視点が下敷きとなっていたと小生には思えてならない。

 飯塚以前と以後では、明治維新以前と以後のごとく、その方法的・視覚的・諒解的発想そのものが大きく断絶している。それが小生の飯塚に対する評価と理解の前提である。

 明治以来の学者が、すべからくその体験論を、カント以来の文化の「中心と周縁」理論に拠って、理性の伝播と享受という川下的立場からの「受容的理解」から発展させていった。
 それに対して飯塚は『アジアのなかの日本』や『ヨーロッパ対非ヨーロッパ』などにおいても、優劣を前提としない、絶対的価値観に立脚した「等質的文化論」の視点から、日本と日本人を捉えることを試みたのではなかったか。

 飯塚浩二を論じる視点はさまざまに可能だと思われるが、この忘れられた思想家の世界観が、まさしく司馬遼太郎の文芸的繁茂にいかに引き継がれていくのか。そして、「街道をゆく」の思想へといかに繋がりうるのか。

 そこはおそらく、なおも未踏の領域ではなかろうか。

 遥かなり。飯塚浩二。                  (敬称略)

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