2021.3月ごろの記事 シン・エヴァ劇場版 感想ネタバレ

【重要】エヴァ劇場版の設定の解説・解釈ではないです。
(公開当時、観劇直後に書いた感想です)

初見直後の私の感想「色々あるけど総じて面白かった」
旦那君の感想「残念だった」

面白さってなんだろうとまた考えた。
「面白い」…とは、私が考えるところでは、いくつかあって
その中の一つが「自分が知りうる・想像しうる範囲のほんの少し斜め上(未知の領域)であり、自分が好きな方向性・路線にのっとった(ほんの少しずれていることも含む)情報を得ると面白いと感じる=脳が喜ぶ」なのだけど、
その部分を期待して満たされなかった旦那君はおそらく「面白い」と感じなかったんだと思う。
自分の妄想地点や期待値が高すぎると置きやすい現象だと過去の経験から(周りを見てきても)そう思う。
そういう意味で言うと、私にとっても「想定の範囲内の話」で「奇をてらったものもなく」エヴァがエヴァとして終着点についた感じはしたので
予想外の面白さ、というのは感じなかったのかもしれない。
でも、「それでいい」、「それがいい」と思ってしまった。
だから私は面白かった。
庵野監督が描きたかったのではないかなと思う根幹の部分がしっかり伝わってきて、その終着点にたどり着いた満足感と、そこにたどり着くまでの工程に面白さを感じた気がする。

庵野監督の描きたいものはこれ以上はないのだな(補足:創造の限界と感じた)と思った旦那君は物足りなさを感じて、
庵野監督の描きたいものはこれ以上はないのだな(補足:ここを描きたいのだな)、と思った私は面白く感じた。
全く同じ言葉だけど、全然意味が違う、そんな感じの初見後すぐの感想でした。

※旦那君は今は「面白かった」に変わっているので、視点を変えると面白さに変わるのだとは思う。

旦那君はさておき、私が面白かったと思った理由は
(上から目線ではないつもりだけど視聴者目線で見てるので…ご察し)
1.庵野監督の好きなものを詰め込んだ宝物のような作品に感じた
2.庵野監督の成長した部分と変わらない部分を見ることができた
3.メタ要素
4.作品の根幹部分を楽しんだ後に、設定・展開をじっくり何度も考えて楽しむことができる

1.庵野監督の好きなものを詰め込んだ宝物のような作品に感じた
(1)色んなアニメを思い出した
パクリではない、オマージュでもない、ただ好きなのだろうなということを
感じながら見ている自分がいた。
・前半部分の昭和初期のような世界観
 【視覚的視点】エヴァの最先端の世界観が崩壊した時に、この昭和初期のような戦後のような建物に戻るだろうか、と背景や人々の姿を見てすぐ感じた。タイムスリップしてるのだろうかとも思った。
ジブリの様々な作品を思い起こした。
人物像は、どの作品とは限定しないけど、子供をあやす親・村の世話好きのおばさんたち、機械が好きな男性。
世界観的に言えば、昭和初期のような感じはぽんぽこを、
シンジ君が小さくなっている姿は火垂るの墓を
「風立ちぬ」は見てないので、わからないけど…(すみません)

リアルな世界ではデジタル化が進んでいく。だけど庵野監督はこの昭和初期のような古めかしい感じにもどりたいのかなと。
物理的には不便だけど、精神的には人は繋がっているように感じる。
戻りたいわけでもないかもしれないけど、それが好きなのだという原点回帰をしたというか…内なるものを感じながら見ていた。
 【精神的視点】
「名前がないということ」ここにもジブリっぽさを感じた。
※パクリとかオマージュとかそういうことを言いたいのではないのだけはわかってほしい
「名前がない」初期ロットが 赤ちゃんに出会って、村の人に出会って、人になっていく姿を描き、自分の命の限界値を知った時、最終的に赤ちゃんの手作り人形を抱いていた。母性…という言葉で片付けるには足りなさ過ぎる。
私の語彙力では言えない…なんて言ったらいいの。。。
・ミサトの死/ヤマト(大和?)作戦
ここはすごく…すごく宇宙戦艦ヤマトを思い出した。
日本人がこういう結末大好きなのだろうか。庵野監督が好きなんだろうか。
止められない何かがある時、アトムは太陽に突っ込み、沖田艦長は一人ヤマトと共に沈んだ(どこにつっこんだんだっけ?という記憶の曖昧さはさておき) だからヤマト作戦なのかなと、ミサトさんの死にゆく背中を見て思った。
・ゲンドウの死/終着点
ぽにょで宮崎駿はあちらの世界に行ってしまってもう戻れない、でも会いたい人には会える…というようなお話を描いたのだと私は受け止めているのだけど、それをエヴァでも描かれていたように感じた。
その段階まで庵野監督も到達されたのだなあと。
ゲンドウに託した…というか、ゲンドウを解放したというか、
ゲンドウのかっこつけをやっと暴いたというか(この辺は後で)

2.庵野監督の成長した部分と変わらない部分を見ることができた
変わらないなと思った部分は「肉体が精神の融合を阻む」というか…なんというか…語彙力がないので伝えようがないのだけれど、無印劇場版の時はシンジが「分かり合えない」ことを「精神の融合」でもってみんなと一緒、分かり合える、これが理想の世界だ、こうなりたかったんだ、というのを見せつけられて「それでいいのか???」となって気持ち悪かった。(という記憶)

「シンエヴァ」でも同じことを描いていると思う(ここが変わらない部分)。
ただ、それを抱えたままなのは「ゲンドウ」で、シンジはそういう考え方の父親を認め、大人になった。
ミサトが言った「父親にできることは肩をたたく…」、というのはそのことなのかなと。この場合肩をたたくを選んでも殺すことになるのだけど。
人間、年を取ると(取らなくてもわかる人はわかるけど)、親が子供のように感じる時がある。
なんでそんなに分からず屋なんだ、なんで大人のくせにそんな子供みたいなことを言ってるんだと…
ある程度受ける側の子供の精神年齢が大人なら「ま、そういうこともあるさ」と諦められるけど、シンジ君のメンタルはよわよわなのでそんなことできるはずもなく。
できることもなく、流されたルートの結末が無印だったのかなと。

・14年の月日のうまさ
「シンエヴァ」では14年の月日が流れていて、14歳の思春期の子供たちが14年たって28歳になっている。
わたしは 個人的に28歳はわりと人生の岐路があるなあと感じているのだけど、そこに着地させているところがこの「シンエヴァ」のにくいところだとすごく感じた。最初は違和感ありまくりだったけど。
14年たってる(別人格なのだろうけど 記憶を維持している)アスカが、先に精神的に大人になっていて、(まとまってない)


旧劇の頃の監督は答えが出てなかったのか、私に理解力がなかったのか投げ出したように感じた。
答えは出ていたかもしれないけど、かっこつけていて表現することができなかったのか、あれから何年もたって、ようやく言語化することができるようになったのか。
庵野監督は小さいころから虚構(空想)と現実の間を行ったり来たりしながら生きてきたクリエーターなのだろうなとすごく感じた。
それは生きていくことがとてつもなく難しく、それを理解してくれる人はあまりいないように感じる。
子供の頃は理解してくれる友達がいるかもしれない。
でも社会人になったら、そのままではいけないことの方が多い。
その狭間の中で、「肉体で阻まれているから分かり合えない」「精神世界だけならいいのに」というような考えで、初期の頃のエヴァが作られたのかもしれない。
だからあの結末は間違ってもないし、おかしくもないのだと今はおもう。
でも「シンエヴァ」ではそれは旧世代の父親のエヴァに託し、シンジくんのエヴァではその答えは内包したまま(認めたまま)現実へと戻っていく。
だから、最後のリアル写真と、庵野監督の出身地である「宇部新川」の映像が必要だったんだと、そんなことを考えながら見ていた。

この事は「スタジオカラー」を立ち上げた信念に通じるものがあるなと
少し感じた。
「クリエーター」は「クリエーター」であり続け、「経営者にはなってしまってはいけない」みたいな…(そんな記事あったよね?)
虚構(空想)と現実の狭間で(理解と融合が難しい自分の中にある二つの精神、下手すると崩壊・分裂する)生き続けることのむずかしさを内包しながら社会性を自分で持たせる。
その道に乗ることができたのは庵野モヨコ氏がいたからなのかもしれない。
シンジくんにとってそれは誰だったのか。誰たちだったのか。
カラーという名前はモヨコ氏が「フランス語で歓喜」という言葉だということからつけられたらしいとどこかの記事で読んだ。
モヨコ氏はどちらかというと「現実をがっつり受け止めて」がっしり生きていく、そんな女性と見ている(エヴァの女性陣を彷彿とさせる)
一人では生きていきにくいクリエーターと 一人で生きていけると思われているクリエーターの融合…とかも考えながら見てた。
だから、映画が終わった時 私の心の中に産まれたのは「拍手喝采(歓喜)」だった。


・つまらないと感じてしまいがちな部分だけど、そうは思わなかった部分
新劇場版を見てきて「なんでこんなゲンドウのユイ大好き。ユイに会いたいよ。エゴに全世界が巻き込まれてる話を見ないといけないんだろう」と思っていたのだけど、最後まで最後までこの感情抱かせることを貫き通せた作品ってすごく面白いなと感じた。自分だったら絶対「世界観ちいさい!!!」ってメンタルつぶれる。でもそこをほんとに大きく大きく育てた作品はこんなに面白いのだなと改めて思った。
貫き通すって大事!

・精神世界と現実世界
旧劇では まとまりがなくてなにがなにやらわかりづらかった
精神世界と現実世界がわかりやすく表現されていたので
混乱せずに見ることができて、とてもよかった。
こういう世界の中で庵野監督はいきてるんだなあとも感じながら見てた。
(生きづらいだろうなあと)
電車の中の会話の情景は、なぜか火垂るの墓を思い出した。なぜだろう。


・泣いたところ
加地さんとミサトさんの間に子供ができていることを知った時に泣けた
加地さんが亡くなったことを知った時(映像シーンで)は泣かなかった。
シンジくんがミサトさんに「息子に会った」と伝えているシーンは泣いた。
親の思想に苦しんできた次世代のミサトさんが命を繋いだことは大きな意味があるなあと、ここにも14年という月日の設定の良さについて考えさせられた。
クラナドで子供(家族)ができてからの大号泣を経験しているので、こういうのに弱いのだなとも感じるけれど、孤独な子供たちを救い上げた気がして温かさと寂しさと空しさで胸がいっぱいになった。

・なんでメタを…リアルを入れるのか
昔の劇場版のときはリアルな画面が入ることがほんとに理解不明だった。
アニメを見に来ているので、現実に引き戻さないでほしいと思った。
でも今回はほんの少し理解できた。
最後の方で、シンジくんの背景に「タイトル」などが流れて「え?」となったけれど、そのあたりから段々とメタ要素が強くなってきて、物語から引きづり降ろされようとしている感じがした。
アニメの中は終わりです。現実に戻りましょうと手を伸ばされているような。
そして、最後のシーンで、アニメと現実が一緒に存在している。
これが庵野監督の頭の中なのだろうなと、今回はすごく感じて、面白さを感じた。
旧劇場版は自分が若かったのもあるだろうけど、「???」となる部分が多く感じた。シン劇はわかりやすく解説したという感じがした

・眠くなってしまったところ
ヤマト作戦あたりかな…戦艦での戦いはあまり…槍を作るというのもわかるんだけど…ちょっと長すぎたかなと思いつつも、あそこがないとミサトさんの死に繋がらないからなあとも。

・カヲルくん
ホントこの作品は一人ぼっちのクリエーターが多いなと。
それが融合できるのがエヴァ思想だったんだろうなあと。
あの情報は萌え要素なのだと。
勝手な妄想だけど、カヲルくんはゲンドウくんと同じような思想があると思っていて。でも、ゲンドウくんはユイと結ばれ、子供ができた。
先に行かれてしまったことと、一人なのだということを突きつけられたとか
色々妄想したりした。
ゲンドウと精神世界で結ばれることがもしかしたらカヲルくんの願いだったのかもと。それはかなわない現実だから、子供であるシンジ君に託した。
とかねーーーー

・アスカのこと(まだ書いてないだけ)
・加地さんのこと(まだ書いてないだけ)
・冬月のこと(まだ書いてないだけ)
・ゲンドウのこと(まだ書いてないだけ)
・ミサトさんのこと(まだ書いてないだけ)

・マリは必要だったのか。
劇場版を見終わってしばらくしてからも、結局「マリ」は必要だったんだろうか、という疑問が取れず、相方にそのまま聞いたら「いないと人員が足りない」と言われ 苦笑した。
いや確かにそうだけど…、最後まで生き残って…というか自力で戻ってきて、最後の駅でシンジとまるでカップルになると予想されるような雰囲気を醸し出していて… このキャラの必要性ってなんなんだろと見終わっても疑問が残った唯一の存在。
マリは言う「何があっても連れ戻してあげるからね ワンコくん」
私は当事者でも何でもないから無責任なことを言ってしまうけど、
なんとなく、庵野監督が闇側に落ちそうなときに どっしりと「大丈夫私が連れ戻してあげる」と言ってくれたのはモヨコ氏ではなかったのだろうかと。
そう思うとなんとなーーーく、なんとなーーーーくだけど解決した。
※勝手な妄想です。
一人で生きられそうな、どんな困難からも自力で戻ってきそうなモヨコ氏。
ちゃんと細かく見たら そういうのも見えてきたりするんだろうかと、
今はほほえましくあの最後の駅から飛び出す二人の場面を思い出しています。

ああ、そうだ。
けんけんとアスカはくっつきそうね。というのは速攻で相方と意見が一致した。みんな過去を抱きながら幸せになれるといい。



小難しいこと(設定や展開)をいっぱい並べて、壁を作って、難解にして、
理解できないでしょと言いながらも、しっかり言いたいことは伝わってきたところがとても面白かった。
初見は言いたいことを受け止め、見終わった後は設定や展開について考察させる、何度も何度も視聴者を楽しませる仕組みができていて、そういう意味でもとても面白かった。

総じて、庵野監督の描きたいものを描けたのではないかなと思えたので面白く感じて、クリエーター側からしてみればそれは幸せなことだなあと。
視聴者に媚びない、自分が思っていることを形にすることが許されている環境の素晴らしさ。それは庵野監督が選んで勝ち取ってきたことなのではと、
シンジくんを思い返した。
作品を最後まで作り上げることがどんなに難しい事なのかを知っているクリエーターだからこそ、完成させられて、終わらせられることはすばらしいことだとほんとに思う。
おめでとう、お疲れ様でしたと涙が浮かんできて、また拍手喝さいをした。

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