見出し画像

今頑張ってる先生へ

「先生、保健室にいってもいいですか?」
申し訳なさそうに、漏れるような声で伝える声。
梅雨に入った頃からこうした声が激増した。
彼らに悪気はない。自分の授業がしょぼいのだ。
1年目の時は、はっきりそう感じていた。
隣のクラスより授業が拙いのが自分でもよくわかった。かわるがわる保健室に行く児童の背中に自分の無力さを呪った。
テストの点数が低かったら、自分の指導が至らない。つよくそう感じた。

2年目になって、1年目と同じ3年生をもった。自信はあった。1年間でかなり鍛えられていることが実感できていたから。
立ち振る舞いも堂々としていたはずだ。
しかし、2年目も結果は同じだった。
保健室への来室回数が多い児童に自クラスの名前がたくさん載っている。何なら1年目よりも多かった。学年の先生は優しく「この子達は精神的に不安定な子が多い学年だね」と諌めてくれた。
憤りがあった。
自分の指導は確実にレベルアップしていて、この方法であれば、上手くいく。昨年からブラッシュアップしている分、技術では2年目の方が数段上だ。しかし、算数の前に体調不良を訴える児童が週に何度もあった。
彼らは私のことを好いていてくれたと思う。
休み時間にたくさん遊んだ。
絶え間なく私の近くで話をしてくれた。
実際、年間を通して目立った大きなトラブルも起きなかった。
でも、保健室に行く児童は変わらなかった。
「この子達が弱いんだ。指導は間違っていないはず。だって上手くいっていた先輩の真似をしているのだから。」
1年目とは打って変わってかなり傲慢な人間になっていた。

今となって振り返ると特段、珍しい話でもない。
若手のクラスで不安傾向の強い児童が心身の不調を増幅させる。
全国どこでも起きているのではないだろうか。

「魔の6月」という言葉がある。
6月にクラスが不安定になりやすいという教育界の通念だが、渡辺道治氏は6月についてこう述べる。


とくに6月や11月は、大きな行事もなく、エネルギーをぶつける対象が少ない状況にあることが少なくありません。さらに、教師も年度当初の勢いが日々の疲れとともに減退してくる時期であるともいえます。

学級開き当初は存在した「距離感」が徐々に薄れ、子どもたちのエネルギーが余っている状態と教師のエネルギーが減退している状態が重なり、それらが引き金となってさまざまなトラブルが頻発するようになる。

これが「魔の6月」「魔の11月」と呼ばれるゆえんであると私は考えています。

https://toyokeizai.net/articles/-/671407?utm_source=Twitter&utm_medium=social&utm_campaign=auto


思い返せば、6月はいつも躓いてきた。
今年は大丈夫だろうと思っても、躓く。

そこを私は今までずっと「授業力」だと思ってきた。
授業が児童達との関係性において重要であることは論をまたない。先輩の先生とくらべて自分の授業が拙いことは明白。

しかし、その差を埋めるのは一朝一夕ではない。

小・中・高・大と教育機関の中では最も差が大きいのが小学校だ。
教室にはさまざまなタイプの児童がいる。
そんな児童30余人と教師1人。
ギリギリの微細な技の上に人間関係が成り立っているのが教室だ。
全員の心を常に前向きにさせながら、主体的に取り組ませることは容易ではない。

だからこそ、「授業力」の一点が問題なのだと思っていた。

ただ、最近、それは半分正解で、半分不正解なのではないかと思うのだ。

確かに、明らかに授業が問題である時もある。
できている児童が損をしている授業や、できない児童が精神的に追い詰められる授業が展開されている時は授業が問題だろう。
とはいえ、中には授業がある程度上手く流れているにも関わらず、児童達の様子が落ち着かない場合がある。
授業が100%完璧に上手ければそんな心配はないのだろうが、そこまで授業を完璧にこなすのは至難の業だ。(だからこそ、研究授業で若手もベテランも研鑽する)

では、足りない分を補完するのは何か。

それは、「教師の余裕」ではないか。

4月は準備をしっかりしている。近年、準備日数の少なさが話題になるが、それでも数日は準備できる。ドタバタするからなかなか余裕が取れない場合もあるが、子ども達の頑張りたいエネルギーも相まって、何とか乗り切れる。
5月。4月よりも教師の余裕がある。学級の中のシステムが回り始めるからだ。子ども達がいい意味で慣れてくる。
そして6月。魔の6月だ。
子ども達が悪い意味で慣れてくる。
ダレてくる。
教師のエネルギーは4月5月ほどはない。
ここまでの多忙な生活に蓄積した疲労が色濃くなる。
何度も伝えた話をまた何度もしなければいけない。
心も体も疲労が溜まりイライラもしてくる。
渡辺道治氏のとおり、教師のエネルギーが枯渇する。


「教師の余裕」なんてどうやって持つのか。
それができないから苦しんでいる。
Twitterを見ていると、そんな初任者がたくさんいる。
痛いほどよくわかる。自分もそうだったから。

藁にもすがる思いで、教育書に手を伸ばし、有名な先生をSNSでフォローし、なんとかその日を何事もなく過ごせるように生きる。
痛いほどよくわかる。

下の円を見ていただきたい。

ゲシュタルトの欠けた円

円だ。
気になるところは?と聞かれれば、右の途切れているところと誰もがいうだろう。

これはゲシュタルトの欠けた円というもの。
多くの人がそうだったように、人間はどうしても足りない所に目がいく。
他の部分は一切欠けていないのに。
そういう脳の仕組みなのだ。
脳は自動的に欠けている部分を見つけ出してしまう。

だから、クラスの足りないところばかり目に入ってしまうのは自然な話。

でも、だからこそ、"欠けていない部分"を「上手くいってる」と判断することが大事なのではないか。

自動的に判断してしまうからこそ、自分で能動的に欠けていない部分を見つけ出さねば、多くの部分が報われない。

教師はつい、この欠けた部分をつい指摘しがちだが、欠けていない部分こそ大事にしなければいけない部分ではないだろうか。

・毎日子ども達が学校に来ていること
・あいさつを返してくれること
・1日怪我なく過ごせたこと
・こちらを向いて話を聞いてくれること
もっともっとある。
これらは全部きっと当たり前ではないはずだ。

きっと、これらをギリギリで頑張って、頑張って、頑張りきれなかった結果が、算数前の「保健室に行ってもいいですか?」なのだ。
その子にはその子に合ったハードルがある。
その子の戦いはきっとゲシュタルトの円のように、繋がっていて当たり前と思われている部分で行われているのだ。
そしてそれは、誰にも見つけられずに、今日も埋もれていく。

教師の余裕とは、そこに寄り添う余裕なのではないかと思う。
そこに寄り添えれば、「自分の指導は問題ない」なんて傲慢な考えには至らないはずだ。
そこに寄り添えれば、ゲシュタルトの欠けた円の、欠けている部分には惑わされないはずだ。

今年から私は、朝クラスに話す時に心の底から歓迎できるようになった。
「当たり前は当たり前じゃない」
こんな使い古されたキレイな言葉をやっと心の底からそうだと思えることが増えてきた。

「おはよう!今日もよく来たね!待ってたよ。」

こんな当たり前すぎること、前は恥ずかしくて言えなかった。
けれど、今は心の底からそう思うし、堂々とそう言える。
もしかすると、前より少しだけ円の欠けていない部分を見つめられるようになったのかもしれない。

過去と他人は変えられない。
しかし、未来と自分は変えられる。

あなたは悪くない。
円の欠けた部分に目がいくのは、脳の働きとして当然なのだ。
見方をちょっと変えるだけでもしかしたら、世界もちょっとだけ変わるかもしれない。
あなたを変えられるとは思っていないけれど、明日からのあなたの心の余裕に少しでも役立てばうれしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?