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「なんか」症候群

「なんか」が止まらない。
なんか不安、なんか楽しい、なんか嫌だ。

気づけば社会人になっていた私。こないだ、会社の先輩に「この会社で3年くらい?5年かな?まぁ経験積んだら、どこでもやっていけるよ」と言われた。どこへでも行ける、なんか嬉しい。3年〜5年もここで頑張らなきゃいけないんだ、なんか嫌だ。そもそもこれが自分のやりたいことなのか、なんか不安。

嬉しいと嫌って真反対な感情だけど、実は紙一重なのかもしれない。楽しい時間を想像すると必ず、終わった後の虚無感を考えてしまうのと同じように。

好きなアイドルのライブに行ったあの日。推しに会えた感動よりも、翌日にある英語100単語テストが憂鬱すぎて泣いた。その日を楽しむために勉強も真剣にやってテストも頑張って、その日を喜びで満たすために毎日を過ごしていたのに、いざ当日になるとライブを楽しむよりも、終わってしまったあとの悲しみを考えてしまう。終わったら、またつまらない日々だな。終わったら、また勉強しなきゃ。終わったら…終わったら…今目の前のことを考えればいいのに、どうして目の前のことを無視して先のことを考えてしまうのだろう。

目の前のことだけを見ていれば、「なんか」なんて言葉は出てこない。「なんか」は、物事を客観的に見た瞬間と自分の心と向き合った瞬間に現れるから。この、溢れる「なんか」な感情たちを整理したくて、先輩に相談したことがある。

「私、自分と向き合いたくなるんです。向き合っちゃうんです」

すると先輩はバッサリ言った。
「暇なんだよ」

グサってきた。自分と向き合うことが大切だと思ってたし、自分には必要なことだと思ってたし、自分と向き合わないと心が壊れてしまうような気がしてるから。でもその先輩は、自分と向き合うことを放棄している。そして、それが幸せだという。それが頑張れるコツだという。自分の感情を知りすぎない、むしろ知らない方が、目の前のことに純粋に向き合えるという。

先輩の言っていることが正しいと思った、そして羨ましいと思った。自分と向き合わない。私もそうなりたい。でも、果たしてそんなことが自分にできるのだろうか。だって、向き合わないと自分が何を思っていて、何を感じていて、どこを向いているのか分からなくなりそう。でも、それがもしかすると「なんか」なんて苦しい感情たちが消える答えなのかもしれない。

でも、私にはたぶんできない。先輩のようにはなれない。自分を見失うことが怖い。とにかく怖い。だって、これまで何よりも自分の感情たちを大切にして生きてきたから。苦しいけど、自分の感情と向き合ったからこそ辿り着けた場所もあるから。だから、これからも私は向き合っていきたい。苦しいけど。

これからも、よろしく頼むぞ感情たち。
そして、なんか星人の私。

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