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フレームの外側を見ていたい

伝えるって難しい。

あれこれ考えて、言葉を尽くして、100%の想いで伝えたとしても、きっと言いたいことの2割も伝わっていない。

そんな風に感じることが、よくある。


間違えずに、思うままを伝えるには
きっと一度のやり取りでは難しくて
何度も何度も互いに確認しあって
些細な調整を繰り返し
なんとか6割程度までいけるのでは、と思う。

少しでも伝えることをサボってしまうと、あっという間に亀裂ができる。
一度入ったヒビは、簡単には治せない。


テレビや雑誌、SNS、あらゆるメディアに触れながら、思う。

どれもこれも、ほんの一部分でしかないのだと。



メディアは「伝える」為のものだけれど、受け手に受け取りやすく加工を施されたエンターテインメントな要素もある。

例えば文章で、起こった出来事の一部始終をつぶさに伝えたくても、すべてを逐一書いてしまったら、冗長で退屈な、主題は何かも曖昧な記事が出来上がってしまうだろう。

読み手に読み易く、整理して、削ぎ落として、時には脚色も必要かもしれない。



テレビだって同じだ。
ひとつの事実を伝えるのに使える時間は何分だろう。
その間話せる言葉はどれ程あるのだろう。
映せる情報は、どこまでの範囲だろう。


どうやったって、取りこぼす。

そういうものだ。


だけど観ている側、読んでいる側には与えられたものが全てだ。
当たり前だ。
フレームの、ページの外にあるものまで考えが及ぶようには作られていない。

それでもなるべく多くの人に、過不足なく伝わるように。
研ぎ澄まされた情報を選んで、メディアにのせられるのが、プロなんだろう。




SNSの炎上や誤情報は、当たり前だ。
訓練も勉強もしていない人達(私含めて)が、好きなように発信しているのだから。

だけど受け手はどこか、それをプロの作る「メディア」のような気持ちで見てしまう。
同列にあるように思えてしまう。

そこにあるものが全てではないことを、忘れてしまう。


プロでも上手くいかないことが沢山あるのだ。
そうでない私たちが、伝えきれないことがあるのは当たり前だ。
受け取りきれないことがあるのも、当たり前だ。


みんながそんな風に、想像力を働かせながら、メディアと向き合えたらいい。

どんな物事も、事実のほんの一部でしかないことを、忘れずにいられればいい。

フレームの外のことに、想いを巡らせられたらいい。



世の中が勧善懲悪ではないことを、きっと私たちは知っている。



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