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海か山か、

海派か山派かという話がある。

山に囲まれた海なし県育ちの私は海に対する憧れが強い。海を目の前にしたテンションはいつも周りを驚かせる。
小さい頃は夏になれば毎年のように海に海水浴に行っていたし、出かけるとなれば海が見える場所を選びがちである。海のあの塩の匂いも、空と海の境目も、何度も何度も押し寄せる波も、浮き輪のビニールの匂いも、バケツの中のヤドカリも、海の家の焼きそばも、海水浴後のシャワーで洗い流すのが大変な砂も大好きなのだ。大人になって、毎年の海水浴に出かけなくなって海で泳ぐことは少なくなったが、みるだけでも、匂いを嗅ぐだけでも、音を聞くだけでも、風を感じるだけでも、離れられないのだ。

海は特別だけど、山は日常だった。

東西南北、庭に立てばぐるっと青く連なる山の影にかこまれる。方角を山で判断する。写真を撮れば山が映る。中学のときに学校行事で他県に行ったときに、自然に山のある位置で方向を判断しようとしたときほど、生活の中で山の存在を認識したことはない。何も考えず、山を探したのだ。当たり前にあるものほど無くなってみないとその存在が分からない、とはよく言ったものである。

海派か山派か、という話である。

海。と答えるだろう。
この質問をするのは特別なときである。出かけるなら海か、山か。

と思っていたのだが、
日常的に、例えば毎日過ごすならどっちなのだろう。海に憧れて、出かけるなら海だ。山が見えることが当たり前だった。
特別が日常になったら、薄れてしまいそうだ。

選べないのである。両方は、元より無い。
どちらかだからどちらも好きなのだ。

海派か、山派かという話である。

この話題がもし来たら私はなんと答えるのだろう。出かけられない部屋の中で空を見上げて考えるのだ。