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与えてばかりで疲れてしまう人へ


すっかり晴れて心地よい朝に嬉しくなり、
はやく秋服が着たくてわくわくしています。

これも、ここ最近までのどんより暗い天気があるからこその喜びなのだとしみじみ。

物事は必ず、
下がったら上がる
出ていけば入ってくる
我慢したら解放がある
悲しみの後には嬉しさ
失敗するから成功に近付く
知らないから知る

コインの裏表のように、真逆に見えることが
本来はセットになっているのですね。

裏が来るまで待てるか。
それがあると信じられるか。で
心の余裕がずいぶんと変わるのではないでしょうか。。




今日は

与えることが大事と分かっているけれど、そればかりじゃ疲れちゃう。

与えるだけで本当に幸せになれるのか?

ということについて。




恋愛でも仕事でも家庭でも、
「まず与える」ということを実践している方も多いかもしれません。


よく

「好かれたければ先に好きになりなさい。」

「欲しければ先に与えなさい。」

「まずは自分から心を開きなさい。」

などといいますよね。


それに対してこのように感じることはありませんか?


自分ばかり尽くすのって何か違う気がする・・

先出しするのはいいけど、、なにも返って来なかったら虚しい・・

何で私がここまでしなければいけないんだ・・

いつ報われるの・・

そんな違和感を感じることがあるかもしれません。

与えるばかりで幸せになれるのか?について考えてみます。


与えるなら、我慢があってはならない


人に尽くしたい。出来る限りのことをしてあげたい。

というのはとても素敵な感覚です。


ではちょっと問いかけてみます。


与えることの中に、我慢をしていることはありませんか?


「自分が我慢をすれば、この人は喜んでくれる。」

「苦しいけれど、これをするのが私の役目だ」


それらは果たして
本当に与えていると言えるのでしょうか・・?


我慢をするということは、
自分が持っているものに蓋をする
という意味にも取れます。


そして、
本当の自分ではないエネルギーを作り出して
与えている、ということになる。

そのエネルギーをつくり出すのは、
かなりの労力を消費します


疲弊した心で行う行為が、
本当に与えているのだと言えるのでしょうか・・?


心が疲れた状態、
つまり余裕のない状態での行為は、
その裏では
無意識に見返りを求めているのかもしれません。

それは執着している状態であり
手放しても良いものなのかも。

誰かのためにしていること。
それは

本当に自分がやりたいことなのか?

それをすることで何を求めるのか?
(見返りを求める気持ちがないか?)

相手の幸せ"だけ"を純粋に祈れるのか?


いま一度向き合ってみると、
自分が人に本当に与えられるものがもっと厳選されていくはずです。


人に与えても自分が欠けないものを与える


本来与えるとは

・たくさん持っているものを分ける
・自分の得意なことで他者貢献する
・純粋な気持ちから奉仕をする

こんな意味なのではないでしょうか。


どこかで自分を犠牲にしていると感じるのであれば、
それは与えるとは言えないのかも。

身も心も十分に潤い
自分の持っているものが溢れんばかりの状態

だからこそ、与えることができる。


限りある自分の大切な心と知識と力

どう使うのか?
誰に使うのか?

ハッキリ取捨選択することが必要だと感じるのです。


そうして見つけたことに対して
全身全霊で自分をただ与えてゆくことで、

相手の求めているものに応えることができ
自分の幸福感も抜群に高まってゆく。


それが連続するからこそ
幸せになるのだと思います。


与えることに疲れてしまったときは、
いま一度

我慢の気持ちが無いか?
自分が本当にやりたいことか?
心から相手の幸せだけを祈れるか?

を手がかりに"与える断捨離"をしてみると良いかも。

→ブログはこちらにお引越ししています。



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