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受け売りの、愛の話

酔っ払っているから、愛の話をする。
最初に言っておくけれど、これは大学時代の授業の受け売り。
けど、やっと最近意味がわかった。
だがしかし、意味がわかったような気がするけれど、それを120%に語れるほどの自信はない。

ただ、自信がないからと、
語ることをやめてはいけないことも、最近やっと分かった気がする。

いろんなことが表出してきたと思う。
ジェンダーのこと、格差のこと、ポリティカルなこと。
みんなが見えていなかったことじゃない、
各々が快適に暮らそうとするがために、見えないことにしてきたこと。

けれど、誰かを愛すとき、
何かを無性に愛しいと思ったとき、
その対象の全てが恵まれていてほしいと思う。
誰かではなく、自分を愛することを決めたときも同じことだ。
愛する自分が、愛すべき自分でいるために、
世界が回るようにあるべきだと思うはずだ。

そうなったとき初めて、そこで目の当たりにする、
見なかったことにしてきた理不尽や不条理。
愛する人のために、愛する何かのために、愛する自分のために、
立ち向かいたいと思うはずだ。
その理不尽や不条理を取り除きたいと思うはずだ。

それはもしかしたら、
今まで自分が加担してきたことかもしれない。
自分が自分に、傷つかぬよう枷をかけていたことかもしれない。
自分がそれによって利益を得ていたことかもしれない。

そこで絶望を覚えるのは簡単なことだ。
そこで自分の無知を恥じることは簡単なことだ。
自分のズルさを嫌悪することは簡単なことだ。
できることの少なさを思い知るのは簡単なことだ。

けれど、その絶望で、
その無知で、その思い知ったことで、嫌悪で、
打ちひしがれてはいけない。
そこで打ちひしがれているのは、結局、悲劇に酔っているだけだ。
その愛を悲劇的に演出したいのか、それはきっと違うはずだ。
その対象を、悲劇に終わらせていいのか、それはきっと違うはずだ。

誰もが何かを愛す。
それは人に限らず、動物に限らず、文化に限らず、自然に限らず。
その愛を幸せに注ぎ続けたいと思うことこそ、
人が人であり続ける理由ではないのか。
そしてそうやって成り立った人は、だからこそ愛の意味を知っているから、
隣人が注ぐ何処かへの愛へすらも、大切にしたいと思うのではないだろうか。
人が人であるために、愛という感情ともいえる、運動ともいえる、現象ともいえるものが、不可欠だとわかっているから。
そうして愛を受けて成り立ったものが、結局、目の前の愛する対象になっていることも想像できるから。

知覚を止めることは簡単だ。
まぶたのささいな動作で、耳を塞ぐ簡単な所作で、息を止める少しの窒息で、あっさりと完結してしまうくらい簡単だ。
けれど、目を瞑って、耳を塞いで、息を止めてしまっては、愛するものの姿も臭いも感触すらも拒絶してしまう。
何かを愛そうとするとき、私たちは感覚を開かなければそれはままならない。
そして、感覚を開くと、同時に、その愛すべき何かを囲む環境すらも知覚する。
それはつまり、愛すべき何かは、愛すべき何かを取り囲む要素をすべて含めて初めて、愛すべき何かとして存在しているということだ。

あなたが愛するためにその対象を知覚するとき、
あなたはその愛すものを取り囲むすべてを知覚して愛している。
だから、その愛するものを守りたいと思うとき、
それはその愛するものを取り囲むすべてすらも守りたいと思っている。

そう考えれば、今起こっているすべてのことは、
あなたにとって他人事ではなくなる。
あなたにとって、すべてが重要な決断となる。
あなたにとって、愛すべきものを守るためのアクションになる。

人は愛で盲目になる、のであれば、結局それは愛じゃない。
人は本当に愛を感じたとき、鋭敏になり、聡明になり、内省的になり、行動的になる。
それは全て、それを守りたいと思うからこそである。その対象が未来永劫、幸せであれと願うからこそである。そのために、道をひらいていきたいと思うからこである。

今起こっていることは、結局そういうことだ。
愛なのだ。人が何かを愛そうと真摯に向き合ったことが表出しているのだ。なんてことを、私は最近考えている。





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