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30歳までに編集をやめたい

選ばずにきた7年

なんとなく編集という職を始め、気づけば7年。けれど確固たる「わたしは編集者になりたい」と思ってこの職を選んでいない…ということに、最近やっと気付いた。編集者になりたいと思ってなっていないし、今はもう、一刻も早く編集者をやめたいと強めに願っている。

大学を卒業して海外へ留学したいという気持ちを燻らせながらも、惰性で小売店のPOPやポスターをデザインするアルバイトと、大学史の史料を整理するアルバイトでなんとなく暮らしていた2016年。当時のパートナーが第二新卒で就職が決まり、同時期に勤めていた小売店の閉店が決定し、焦ってCINRA JOBを開いて見つけたのが雑誌編集の仕事だった。高校生のときに立ち読みしていた雑誌、という理由で記念受験&求職活動の皮切りのつもりで応募。幸運にも美大生で、美術館に勤めたいな~なんて思いつつ学芸員資格を取っていたので、その過程で制作した文章や冊子、小売店で大量に制作したシーズン・セールごとのポスターやチラシ、そのほか制作物諸々には困らなかった。ポートフォリオとしてそれらを持って、指定された住所を辿り、事務所へ。そうしたら「デザインもできて、文章書けるの?」と誉められホクホクに。あっという間に採用が決まり、職務経験ないけど中途採用という謎の形式で、で私を入れて三人しかいない編集部へ配属された。

編集者としての疲れと諦め

そこから惰性で、というか変に「編集者として生きる」というスタンスに意固地になって、その後に転職をしたりフリーで活動したりしているが、30歳を目前にして「もう十分だな、編集者やめたいな」と思うようになった。締め切りを考えると胃が痛くなり、企画を通すために毎回いろんな説明をしなくちゃいけないプロセスに目眩がし、ファッション業界のギャラの低さに慄き、ウェブメディアで記事をつくることの意味を見失い、とはいえ紙媒体の持続不可能性にぶち当たる。そもそも女の編集者はロールモデルが少なすぎる。以前は私よりも能力のある女性たちが編集仕事のマッチョイズムに負けて退場していくのが歯痒くて、意地でもここにいようと思ったりもした。けれど、今はもうそういう意欲もないし、違う業界で健やかそうに活躍している彼女たちを見ながら、早めに退場できて良かったなとすら思う。一方でこの職業を続けている自分は、健やかな心身が4ヶ月以上続いた期間はない気がする。極め付けに、7年間で制作進行が得意だと感じたこともこれまでで一度たりともない。それを得意になる、もしくは苦しみながらも続けようと思うほど、編集者という肩書きに執着がない。本当に全てがたまたまで、編集者になる心の準備のないまま始まり、30歳の手前までその棚卸しもろくにされないまま、周りに迷惑をかけながらダラダラと続けてきてしまった自覚がある。

「編集」という言葉を信用しきれない

この仕事に対して、自分の意欲が減退していることも自覚している。編集者を目指す人たち、もしくは編集者である人たちのモチベーションの高さや将来への展望、あるいはその職業への熱い思いを聞くたびに「すんごいな~」以上の感情が湧かなくなっている。私は編集者という職業に対して、人生を賭けるような考えも意志も持っていないんだと思う。もちろん、取材相手への熱意やメディアのあり方、社会に発信したいメッセージは一丁前に思想が強い方ではある。けれど、それはメディアが持つ責任感や元々持っている人権意識の高さであって、編集者が社会に対してどう作用できるかについては、全くもって何も信じていない気がする。もしかしたら元から信じていなかったわけじゃないけれど、ゆっくりと信じられなくなっているのが正しい気もするけれど。どちらにせよ「編集こそが社会を動かす」というような言葉を聞くたびに、曖昧な表情をしてしまい「そうなのかなあ」と天邪鬼な気持ちを抱いてることを、今はもう隠せない。

編集者になっている人たち、なろうとした人たち

そもそも編集者になっている人たちは、編集者になろうとしていた人たちだ。私のように惰性と流れで行き着いた人間とは、その職業に対して持っている意義も思想もまったく深度が違う。雑誌を愛し、ウェブメディアを愛し、コンテンツを愛し、それを編む人たちへのリスペクトとその作業への渇望がその人たちの原点にはある。加えていまは、編集という職業は広義になっていて、雑誌編集やウェブメディア編集のほかにも、企業編集や地域編集、コミュニティ編集などなど…何かの媒介役をも「編集」という言葉に預けている場面に多く遭遇する。社会で「編集」という言葉へのリテラシーが上がり、それと共に期待値が上がり、エネルギーが増大しているのを感じるし、「編集」が社会に求められている。一方でわたしは、そういう言葉を見るたびに、自分自身が「編集」に対して欲求もリテラシーも期待値も低いと感するのだ。言ってることはわかるし、やっていることもわかる。けれど私は「編集」にあらゆる営みを預けられるほど「編集」を信用していないし、愛していないのかもしれない。

「30歳までに編集やめる」宣言

半年ほど前から、仲の良い人たちに「私はもう編集をやめる」と少しずつ打ち明けてきた。ある友達には「30歳までに編集をやめる」と言っていた。1994年1月生まれの私は、来年の年始に30歳になる。多大な迷惑をかけながら、心身共にもう続けられないなと思っている仕事をズルズルと手放してはいるものの、いよいよ真面目に編集を辞めた先のキャリアを考えなければ…と遅まきながら考えるようになった。私の進行管理はいつもギリギリで、それが自分ごとになればなおさらだ。

とはいえ、いざ色んな転職サイトをネットサーフィンしても、今更どんな仕事に鞍替えすれば良いのかわからない。そして、今さら私のキャリアで転職できるのって、そもそも編集以外にあるんだろうか。実現可能性は一旦置いておいて何がやりたいか、と聞かれればやりたいことはもちろんある…が、えいやっとジャンプできるものでもない。そこに行き着くためには、あいだに飛石を設置することが必要そうである。じゃあその間に必要な飛石ってなんなのかを考えると、やっぱり今後も編集を名乗って、キャリアを積む以外の考えが浮かばない。

そんな経緯と思考があり「…結局、うっすら嫌だなと思いながら編集を続けるのだろうか」と考えていたここ数日。西荻窪の古本屋「音羽堂」で、書棚を見ながら後藤繁雄著『僕たちは編集しながら生きている』(2004年)を手に取った。今まで、編集論的な書物に興味が持てなかった(薦めてもらって読み、結果的に糧になったものはあるけれど、自分から手に取ることはほぼなかった)ので、まず自分に驚いた。多分これまで興味がなかったのは、3段落前に書いた「そうなのかなあ」という天邪鬼と、編集を語ることへのめんどくささを感じていたからだろう。けれどどうだろう、この本の内容はぐんぐんと体に浸透していく。私はもう編集者をやめたいと思っているのに。そのまま冒頭から読み進め、「ああ~、編集者として気持ちが分かるなあ」という気持ちになって、また驚いた。そしてやっと気付いたのは、私が編集を辞めるには、この作業が必要なのだとういうこと。編集をやめるために、編集を言語化する必要がある。これまでの仕事を棚卸し、それを辿りながら自分の言葉で整理する必要があるんだと。

編集をやめるために、編集について考える

編集という職業について大学で学んだり、就職のために必死に考え抜いたことがない自分は、編集という仕事が自分と照らし合わされ、言語化されて体系化する機会を逃してきた。ただなんとなくスキルとして出来ることが多いから、私はこれまで編集を続けてきただけなのだ。今の私の状況は、整理整頓する機会がないまま、書類もゴミも山積みになっている机だ。色んなものが積み重なり、作業するスペースはあるものの、ムダもすごく多い。しかしいよいよ、これを大掃除をするときがきた。新しい仕事に、30歳から取り掛かるために。机の上にある道具・資料のどれを手元に残し、どれを処分するのか。30歳からのキャリアをこれから積み上げていくためには、その整理が終わらないと、私は次の机へ移動できない。

この仕事を続けて良かったこともたくさんある。けれどそれ以上に、編集という仕事の疲労感も無力さも感じ過ぎてしまった。編集という言葉はとても便利だけれど、私にとっては範囲が広すぎるし、懐も深すぎる。そして、社会から求められている姿もデカすぎる。そして、その割にはリアクションが得られない。私はもっと個人的なことが向いていて、もっと小規模なことが心地よくて、目に見える形をちゃんと追いたい。そう思ったとき、私は編集という職業名を一度手放したいと思った。じゃあそれが何なのか、新しい名前もきっと、この机を整理整頓する中から見つかるような気がしている。

編集者だった自分を労い、送り出す

この続きをまたnoteに公開するかは分からない。そして、多分30歳の誕生日までには整理しきれない。けれど音羽堂で購入したこの本と、薦められて途中までしか読んでいない編集についての本を本棚からピックして、これから年末年始にかけて読み進めていこうと思う。それでも気付いたことは手書きのメモに残し、記録していく。三十歳で編集をやめるために編集の本を読む、なんか100日後のワニみたいだ。

これまで「編集」で辛酸をたくさん舐めた。けれどたくさんの出会いがあった。だからこそ、名残惜しい気持ちがないわけじゃない。けれど、それ以上にもう続けられないのだ。カップルが仲直りするとき、お互いの情と付き合いで何度も仲直りするけれど、根幹にあるすれ違いは結局解決していなくて、それが膿になっていく…みたいなことが、自分の職業でも起こったらおしまいだと思う。なので、感謝はしつつも情に絆されないよう注意を払いながら、棚卸しと整理整頓を進めていきたい。

そして同時に、これまでボンヤリと続けてきた中で自分の考えを掬い上げ、それをちゃんと労ってやりたい。
キツイながらも、無力感を感じながらも自分の中で守り続けてきた編集者としての意志をちゃんと言葉にすることを、私は最初で最後の自分による自分のための編集仕事にしたいと思う。

(終わり)

※とはいえ手元に編集仕事はまだまだあるので、それらも終わるまで続けていきます。何より限界フリーランスなので…どでかい案件が来たら、やめるのを延期する可能性は超あります

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