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脳内お花畑 day5

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ある冬、外に出していたゴミを漁る音が聞こえた。
不審者かと思い、バッと窓を開けると、こちらを見ながらも前足でゴミを漁るのを止めない、大きな猫がいた。

それはそれは、大きな猫だった。

家にあったチュールを差し出してみると、こちらが心配になるほどに食いついてくる。いや、正しくは、舐めまくっている。
警戒心をもう少し持ったほうがいいぞ、あんまり素早くなさそうだし、とちょっと呆れながらも、なんだかボテボテした姿が愛おしい。

あっという間にチュールを舐め切ると、まだなにかないのか、と言わんばかりにベランダに座り込み、家の中を凝視してきた。つくづく、図々しい猫だなあと思いながら、わたしは窓を開けたまま、テーブルからぼんやり猫を眺めていた。

…ぼんやり、というのは実は嘘で、本当はとても動揺していた。
突然の猫の来訪と親交、太りすぎたお腹は妊娠しているようにも見える。

「どうしよう…」と途方に暮れていると、猫がのそり、と動き出した。
のそり、のそりと、ベランダと部屋の境界線に移動した。
そして、前足を、ベランダのサッシにかけた。

「え、さすがに、うちには入れられないよ」

ベランダから図々しくも、そして堂々と入ろうとする猫を私は思わず制止した。制止された猫は、また、ゆっくりと前足を後ろへ戻し、そのまま、隣の家のベランダの闇へ消えていった。

猫を制止したとき、自分の頭によぎったのは、情けなくも「うちペット禁止だから!」という思いだった。チュールまで差し出しておいて、妊娠しているかもと心配しておいて、もう少し警戒心を持てなんて言いながら内心とても嬉しい気持ちになっておいて。

今でも、あのとき、あの大きな猫の侵入を受け入れていたら、どうなっていただろうと考える。そのまま、またどこかへ出て行ったのだろうか。それとも、今でも膝の上で寝ていたりもしたのだろうか。
どうせ大家に怒られたところで、敷金が帰ってこないか、退去になるだけだったのにな。あの猫が、あの大きいけれど小さな命が、安心してごはんを食べられるのなら、全然そんなこと大した問題ではないじゃないか。

そういえば、小学生の頃も、学校の前に捨てられていた猫を、拾いそこねたことがあった。ダンボールごと持ち帰る勇気がなく、わざわざ家に帰ってお母さんに許可をもらいに行き、また学校へ戻ったらその子猫たちはダンボールごといなくなっていた。

そこから数日、彼らは元気に暮らしているだろうか、と心配になった。(他の子が家に連れて帰ったそうだ。)そして、猫との生活を夢見ながら往復した学校から家への道がなんとも情けなくて、消えたい気持ちになった。

そのときと、やってることが全く変わらない。20年経ってもまだ、気が小さくていちいち他者に許可を求めようとしている自分。助けたいという気持ちだけで、行動に移せない自分。その変わらなさに嫌気がさした。
気が小さすぎて、猫すら気楽に家へ招けない。なんのために大人になったんだろうと腹が立つ。

大きな猫を招き損ねたあとの数日は、何度もベランダを開けては、もうそこにあのボテボテした姿が現れなさそうなことを実感し、虚しい気持ちを味わった。

今でも違う街で大きな猫を見るたび、心がギュッとなる。(大きくなくても、ギュッとなる。)
あの猫は、大きな猫は、元気に暮らしているだろうか。暖かい、勇敢な家庭に迎え入れられ、おいしいごはんをたくさん食べているだろうか。
どちらにせよ、チュールを一袋あげたくらいでいい気になっている偽善者みたいなわたしのことは、もうすっかり忘れているだろう。

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