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ロックでメディアをハックしろ!【ぼっち・ざ・ろっく!】

疑問:何がバズった?

細部の要素ではなく、
本質的な部分がバズったはずだ

本作の演出は相当出来がいい、これについては異論の余地はもはやないだろう。我々の心をくすぐるインキャジョーク、デフォルメ気味でいて流暢さを失わないキャラデザと目新しいのにうるさすぎない画づくり、普段とのギャップが光るライブシーンと心情を反映した優れた楽曲……細部を挙げればきりがない。

かわいいね 
原作ここしか知らないのでこの記事全部デタラメかも

しかし、これだけアニメとして優れた要素に溢れているにも関わらず、私は本作にハマれなかった。インキャへの自己嫌悪と音楽的素養の不足のためかと最初は考えた。私が見ているのは
「ぼざろ−(ギャグ+音楽)≒作画だけ」なる出涸らしなのではないかという説だ。しかし、どうもしっくりこない。ギャグにも慣れたし音楽も聴けば聴くほど良くなってきたのに、未だにハマれないのだ。(ただ単に山田リョウが気に食わなすぎる説もある 金は返せ!)

恐らく、何か本質的な部分が噛み合わないのだろう。「ぼざろ×(ギャグ+作画+音楽)」の計算式において「ぼざろ」≒0なのだ。これは個々の要素の足し算ではなく、コアと要素の総和の掛け算としてアニメを捉える考え方だ。

個々の要素が優れているアニメが、しかしそれだけでここまでバズるだろうか。細部はあくまで細部、売れているからこそ注目される部分に過ぎないと私は考える。いわば足し算の要素だ。アニメが売れなければ、どれだけ優れた楽曲でも見向きもされない(ex.WuG)。優れた楽曲だから売れたのではなく、売れたから優れた楽曲なのだ。音楽的要素と同様に、他の要素も本作のコアではない。

弁明ですが、ぼざろの楽曲は優れていないと言っているわけではありません。普通に鬼リピしてます。あとWuG(いまはRGRだっけ)も応援してます

そもそも、細部がわからない人にも刺さったからこそバズったのではないか。例えば、バンド経験がなくてもぼざろを楽しんでいる人はいくらでもいる。確かにライブシーンは素晴らしいが、所詮数話に一度、3分少々挿入されるアクセントにすぎないとも言える。そもそも画面も流し見、音楽も垂れ流し、なんなら2倍速で視聴している層も近年は少なからず存在するという。もはや細部の出来だけでバズれる時代は終わったのだ。

良くも悪くも私たちオタクは細部に注目しすぎるきらいがあるが、真に注目すべきは作品のコアではないだろうか。大多数の視聴者はわざわざ「星座になれたら」の歌詞を読んだりはしない。もっといい加減に視聴して、しかしそれ故に本質的な部分を無意識に俯瞰して捉えることができている。オタクにウケる細部の要素ではなく、むしろオタク(≒筆者)にウケない本質的な部分。そのコアこそ我々が真に注目すべきポイントであり、本作の人気の理由である。

キャラクター的実存

「ぼざろ」の本質 1/2

以降、同じく日常系バンドアニメたる「けいおん」を先行作品として取り上げ、「ぼざろ」について比較検討していく。萌えアニメである「けいおん」との相違点であるが、「ぼざろ」に対して私たちは自己投影している。というのも、私たち視聴者の方がキャラクターへと近づきつつあるのである。

宇野常寛は「ゼロ年代の想像力」においてキャラクター的実存という概念を提唱した。すなわち、現代人のアイデンティティについて、複数のコミュニティ内で異なる自己像を使い分けるあり方が支配的であるという説明だ。現に私たちは、家と学校とSNSとで、あるいはSNS内ですら複数のアカウントを使い分けることで、異なるキャラクターを乗り換え続けている。

「ぼざろ」においてはどうだろうか。主人公の後藤ひとりは家では姉あるいは子、学校ではインキャ、結束バンドではリードギター、SNSではguitarheroとして微妙に異なるキャラクターを有している。まさしく、私たち現代人の生き方を体現したかのような人物なのだ。

9話 陽キャを前にして

「ぼざろ」の後藤ひとりは私たちの写像として描かれている。すなわち、性格は過剰なほどにリアルで、一方で容姿はデフォルメされ一定の自己像を失ったキャラクターだ。かつて萌えの対象として、性格はありえないほどに可愛らしく、しかし容姿は決してリアルさを損なわないように描かれた平沢唯とは対照的である。現代アニメにおいては、異世界転生モノを始めとして、主人公は私たちの鏡写しとして描かれることが多い。その理由として、私たちのアイデンティティがキャラクター的実存に近づきつつあることが挙げられる。

拡張現実としての虚構

「ぼざろ」の本質 2/2

「けいおん」と「ぼざろ」は、日常系として拡張現実の思想を体現しているが、それぞれの表現法は仮想現実/拡張現実の発想に基づいており対極的だ。宇野常寛は「仮想現実(VR)から拡張現実(AR)へ」という時代の流れが、ゼロ年代の日本社会においては文化的面でも進行していると論じたが、両作の相違からはその変遷を見て取れる。

繰り返すが、「けいおん」はあくまで萌えアニメだ。私たちはあくまで他人の物語として放課後ティータイムの日常を観測している。それ故に、平沢唯は私たちとはとても似つかない可愛らしいキャラクターとして描かれ、作中世界は女子高の教室(≒古典的男性オタクにとっての仮想現実)に設定される。「けいおん」は内に深く潜り日常を楽しむ大切さを説いているが、あくまで舞台設定としては仮想現実を採用している。

「ぼざろ」は「けいおん」とは全く異なる舞台設定を有している。後藤ひとりはビジュアルこそ美少女だが、私たちと同じどうしようもない性格として描かれ、作中世界は共学の教室(しかもいい思い出のない!)に設定される。本作においては舞台設定にまで拡張現実が採用されている。

外部を失った私たちはもはや二次元の教室で描かれるアンリアルな日常を信じられない。確固たる自己像を失った私たちは二次元のキャラクターに対するリアルな自分を信じられない。それ故に背景はよりリアルに、キャラクターはよりアンリアルに。

リアルな背景とデフォルメされたキャラクター

「ぼざろ」で描かれるリアルな背景に似合わないデフォルメされたキャラクター、これはまさしく私たちのセルフイメージなのではないだろうか。造形のチグハグさこそが本作のコアであり、広く共感を得た理由である。

「ぼざろ」の野望

作中世界みたいな現実世界、という認識の逆転

本項では「ぼざろ」のストーリーについて考察する。主人公の後藤ひとりはTVで見たロックスターに憧れてSNS上でguitarheroとして活動するが、現状が自分の理想とはかけ離れていることに気づく、ここまでが1話アバンとなる。そう、本作は仮想現実としてのロック、あるいはSNSがもはや機能していないことを前提としている。そして、彼女はSNSからバンド活動へと踏み出していくのだ。すなわち、仮想現実から拡張現実へという非常にありふれたストーリーラインとなる。

「ぼざろ」は拡張現実的な発想に非常に自覚的である。後藤ひとりのキャラクターは視聴者が共感しやすく(視聴者が自らの類似エピソードを語りやすく)設定され、演出もSNSで話題になりやすいミーム的要素を数多く配置し、極め付けは私たちのノスタルジーをくすぐるような邦楽ネタである。本作は非常にバズりやすい要素を多く含んでいる。

12話ED キャラクターの不在

「ぼざろ」のねらいは最終話EDに印象的に現れている。EDでありふれた日常の風景を映し出すが、そこにキャラクターの姿はない。結束バンドの歩んできた道のりを振り返りつつも、私たち視聴者は自分がそこにいるかのような錯覚を覚えさせられる。そしてラストシーン、実在の土地を描き続けることで現実らしさを高め続けてきた本作が、しかし最後にはどこにでもあるような道で「今日もバイトか……」と呟く後藤ひとりを映して終わる。ここでついに、特別な土地(≒作中世界、聖地)に住まない平凡な私たちと後藤ひとりとが一致する。

ラストシーン 
どこにでもある風景全てが「ぼざろ」の聖地となり得る

そうして外に出ると、ありふれた世界のなんと美しいことだろうかと感激させられる。そう、私たちの現実はまるで「ぼざろ」の作中世界じゃないか、というように認識を逆転させ、現実の風景を一変させることを目的に本作は作られている。

批判:コンプラ的には「正しい」

過度に予防線を張っており、気に食わない

「ぼざろ」の本質が私たちのキャラクター的実存を的確に描写した点にあることは前述した通りである。しかし、その徹底ぶりゆえに本作の細部の表現は非常に歪んだものになってしまった。本項では「ぼざろ」のキャラクターデザインの負の側面を批判する。

現実に生きる私たちのキャラクターも様々な影響を受けているが、メディアの影響は特に大きいものがあるだろう。当然私たちのセルフイメージ≒「ぼざろ」のキャラデザはメディアの様相を色濃く反映している(そもそもアニメである以上メディアそのものであるともいえるが)。キーワードは「コンプライアンス」だ。

近年のメディアはコンプライアンスに抵触しないよう細心の注意を払っている。不祥事があったタレントはすぐに降板させ、不適切な表現があればすぐに謝罪する。少しでも「正しくない」要素があれば、すぐにインターネット上で拡散、炎上してしまうからだ。過剰なポピュリズムの増幅装置として暴走するインターネットを、メディアまでもが恐れている。そしてメディアと同じくらい、いやそれ以上に、私たちもまた炎上を恐れている。

私も3いいねとか来ると焦ります

後藤ひとりはコミュニケーションにおいて過度に予防線を張る。人と関わりたいが、それ以上に怖くて閉じこもる。ひとりの内向的な言動はギャグとして執拗なまでに繰り返される。彼女の態度は些か過剰すぎるが、私たち現代人にとっては誰しも心当たりのある描写だろう。

「ぼざろ」自身も過度に予防線を張っている。その姿勢は、身内(インキャやバンドマン)しかネタにしない、真面目なシーンの後に必ずくだらないギャグを挿入するなどといった構成から見て取れる。他者を傷つけない表現に相当気を遣っているのだ。

しかし、もっとも顕著に表れているのが、作画コストを少なく見せるキャラクターデザインだ。本作はどこまでも真摯に作った作品を、あえてデフォルメされたキャラデザで覆い隠している。手抜きアニメだから批判してもしょうがないですよ、とすら言いたげに。後藤ひとりとなんら変わらない、他人を傷つけないことではなく、その実自分が傷つけられないことだけを考える傲慢さが現れている。

「ぼざろ」は「ロックであれ」という強烈なメッセージを、誰も傷つけない形で「正しく」表現する試みに成功した優れたアニメ作品である。しかし、このような矛盾した姿勢をよく思わない視聴者は少なくない(ロックがメディアに媚びてどうする、と私は思った)。この構図は産業ロックへの悪感情と似通っている。すなわち、売れることを考えすぎて肝心のロックが疎かになっているのではないか、という批判だ。

「ぼざろ」はアニメとして売れるために最大限の技巧を凝らしている。しかし、正直ストーリーとしては大したことはしていないし、覇権アニメのくせしてあえて力を抜いているような作風は本当にいけすかない。私は本作を産業アニメとして強く非難する。

「ぼざろ」が世界に仕込んだ毒

メディアによってロックを復興させる

しかし、ロックとしてはどうだろうか。「ぼざろ」はロックだ。本当に出来のいいアニメをわざと脱力させてまで、時代遅れのギターソロを突っ込んだアニソンをオリコン1位まで押し上げた執念、これがロックじゃなくてなんなんだ。どうしようもない性格に漂白され、低解像度のキャラデザに押し込められても、後藤ひとりの根底には陰鬱な劣等感と破壊的な情熱とが静かに激っている。私は「ぼざろ」のアニメがめちゃくちゃ嫌いで、しかし「ぼざろ」のロックにどうしようもなく惹かれている。

「ぼざろ」は思惑通りにSNS上で爆発的な人気を博し、多くの人々が「ぼざろ」的世界観を共有するに至った。それは本作が非常に優れた表現力でもって現実世界の認識に極めて近い作中世界を構築したためである。しかし、本作の作中世界には一点だけ現実と大きく異なる点がある。ロックが虚構として機能している点だ。

かつてロックはメディアを敵対視し、時にはメディアに封殺されながらも革命を志向して戦い続けていた。しかし、カウンターカルチャーとしての古典的ロックは「大きな物語」の消失に伴い徐々に勢力を失い、忌むべきコマーシャリズムに反抗すらも内包されてしまったことに絶望したカート・コバーンの死によって終焉を迎えた。90年代中盤以降、カウンターカルチャーとしての役割はヒップホップへと受け継がれ、細分化されたロックは嘆かわしくも形骸化し、意味のない概念へと成り下がった。

OP 世界の中心へと沈んでいく
深く潜るのが好きだった
海の底にも月があった
誰にも言わない筈だった
が 歪な線が闇夜を走った
青春コンプレックス

「ぼざろ」はインターネットを利用して古典的ロックの影響力を現代に蘇らさんと試みているのではないだろうか。本作の叫びのようなメッセージはOPから読み取れる。1番は単純に外へと踏み出していく歌詞と解釈できる。しかし2番では、深く潜った(≒日常系に埋没した)後で、海の底の月(海底撈月、不可能なものに手を伸ばすイメージ)を諦めきれずにいる。本作が諦められなかったのは、そう、サビで歌われているようにロックによる革命である。

かき鳴らせ  交わるカルテット
革命を    成し遂げてみたいな
打ち鳴らせ  嘆きのフォルテ
どうしよう? 超奔放凶暴な本性を
青春コンプレックス

「ぼざろ」はミームとしてインターネットに広がり、ロックンロールの毒を撒く。自己目的化したコミュニケーションのため、人々は本作の世界観が正しいか否かについては問題としない(あるいは問題とされても、本作の1%の嘘は99%の真実の内に巧妙に隠されているのだが)。そして、インターネットポピュリズムは単一の価値観を際限なく強化する装置として作用し、「ぼざろ」は面白いという意見が加速度的に世論を支配していく。そして、本作を全肯定するということは、根底に根付く価値観、ロックンロールを称揚することに他ならない。

「ぼっち・ざ・ろっく!」のメッセージはただ一つ、「ネットなんかやめちまえ!」だ。結束バンドの中でただひとり、伊知地虹歌だけが個人的な欲望にとどまらない思想を孕んだ目標を有している。彼女の目標はライブハウスを盛り上げることであり、すなわちインターネットに飲み込まれた人々をロックのホームである現場へと回帰させることに他ならない。そのために、インターネットをミームでハックして内部から変性させる必要があった。そう、本作は革命を成し遂げたのだ。ロックがメディアをぶち壊す、こんなにも痛快なことがあるだろうか。

私は怪作「ぼっち・ざ・ろっく!」を
強く評価したい(二度と見ないけど)。

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