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【U149 第4話】解脱のためのイニシエーション

通過儀礼論

解脱とは生のしがらみを離れることである。そして、完全な解脱は肉体の消滅、すなわち死によって完成する。今回櫻井桃華はバンジー(≒臨死体験)を経て真理の一端に触れた。

通過儀礼の研究は、1907年人類学者のファン・ゲネップが提唱した説が今日まで影響力をもっている。彼は通過儀礼を3つの部分に分けた。分離、移行、合体である。「分離」とはこれまで属していた身分や状態から離れることを意味し、「移行」はこれまでの身分から離れ、自分の能力や待ち受けている状況にしたがって到着場所を探すまでの期間である。最後の「合体」は新しい身分や組織に入るための時期である。

『老いと死の通過儀礼』1996.06
http://osoushiki-plaza.com

バンジーの起源はナゴール、バヌアツ共和国で行われる成人になるための通過儀礼である。上記のように、通過儀礼を経て人は生まれ変わる。桃華は儀式を経てどのように変化したのだろうか、ファン・ゲネップの三局面説に則って考察する。

分離:「大人らしく」ではない?

外ロケでも紅茶を提供される
汗ばむ炎天下でも平然を装う
櫻井家の呪縛

櫻井桃華は櫻井家の令嬢である。彼女は否応なしに家柄に縛られている。番組のスポンサー(SAKURAI GROUP)の意向で新人ながらメインに抜擢され、現場でも丁重に扱われる。

彼女も特別扱いに応え、櫻井家の人間としてふさわしい大人びた対応を見せる。幼い頃から求められたように振る舞うことに慣れているのだろうか、番組ディレクターの指示にも的確に応え、見事ありきたりな高飛車お嬢様を演じ切る。しかし、彼女はより「子供らしい」振る舞いが望ましいのではないかと苦悩する。

第1話にて橘ありすが「大人らしさ」から解き放たれ、等身大の「ありす」として「子供らしさ」を発揮し始めたことを思い出してほしい。今回も同様に、櫻井桃華が「大人らしさ」から分離し、子供らしい「桃華」として生まれ変わることが予想される。

移行:「らしく」あるべきか?

「分別から離れ、ただ今を生きましょう」
「本当の貴女を決めることは誰にも出来ないのですから」

『羽が折れているのに飛んでいくもの、なに?』
坐禅修行の段階
令嬢の服飾に囚われている
水面/自分と向き合うこと

しかし、「大人らしさ」だけを分離することなどできるだろうか。あるいは、大人びたお嬢様という属性も桃華の魅力であり、それを単に否定してしまってよいものだろうか。この疑問に対して、本作は「無分別」の概念による解答を提示した。

仏教に「無分別」という用語がある。広辞苑の記載によれば"主体と客体の区別を超え、対象を言葉や概念によって把握しないこと"を意味する。

一旦、対義語の「分別」について考えよう。"対象を思惟し、識別する心のはたらき" "すなわち普通の認識判断作用をいう"とのことだ。ある存在を他の存在と切り離して捉えること、これが分別である。分別の考え方を適用すれば、「大人らしさ」とは「子供らしさ」ではないものと定義される。

さて、無分別の考え方において、「大人らしさ」と「子供らしさ」は不可分である。櫻井桃華について想像してほしい。背伸びした少女の身体、歳不相応のレディーの振る舞い、そのどちらもが櫻井桃華に欠かせない魅力ではないだろうか。彼女のあり方としては、分別よりも無分別の方がふさわしい。

我々から見た桃華は子供だが、
この子から見れば大人だ

第4話は「大人らしさ」に寄りすぎたバランスを是正しつつも、しかし完全には否定しないスタンスを選択した。「子供らしさ」という永遠の少女への暴力的な偏愛ではなく、成長し変わっていく少女への願い、すなわち無分別。このリスペクトこそが大人と子供の間にある櫻井桃華への、対等な人間としての真摯な姿勢ではないだろうか。

合体:「らしく」ないこと

水面/自分を見つめ直した後で
カメラ/他人に自身を示す
無重力、蜘蛛の糸、家柄からの解放

無分別とは、自分は自分でしかなく他の何者でもないと理解することだ。しかし、地に足のつかない状況で、ただ己のみを支えに存在できるほど人は強くない。自由でいるためには、自分を支えてくれるなんらかの概念を導入し、信じる必要がある。

芥川龍之介が短編『蜘蛛の糸』(1918)の執筆にあたって、Paul Carus『The Spider Web』(1894)を引用元としたことは有名な話である。ケイラス版の『The Spider Web』における蜘蛛の糸は芥川版とは少々異なり、仏教の専門的なモチーフを示すものとして描かれている。以下に説明する。

仏教において、解脱とは「アートマンの非実在」を理解することである。ケイラスは仏教を支持し、蜘蛛の糸をモチーフとして解脱を描いた。主人公Kandataは糸に群がる亡者に対し"It's mine!"と叫ぶ。しかし、これはアートマン(≒我、永遠不変の本質)への執着を捨てきれてなかったこと、ブッダの無条件の救済を疑ったことに他ならず、故に糸は切れ救済は失われる。

櫻井桃華はなぜ飛べなかったか。死の恐怖、すなわち重力を意識してしまったからだ。あるいは、台本通りの振る舞い、自身の振る舞いをジャッジする他人の眼、櫻井家の令嬢としての自分に求められる重圧を意識してしまったからだ。重力の恐怖に打ち克つためには、天への信仰が必要である。

櫻井桃華はプロデューサーの飛翔に感化され、飛べるようになる。情けない姿、まとまらない言葉、無我。おおよそ「大人らしさ」に欠けてはいたが、全く無根拠に"大丈夫!"と桃華を勇気づける。論理という足を欠いたとて、信心が彼を支えている。

本作のプロデューサーはアイドルの代わりに
「子供らしく」なってくれる

彼は世界を信じている。まだ3年目ながらプロデューサー業を二つ返事で引き受け、小学生アイドルの成功を信じて疑わず、その目は誰よりも信仰の光に満ちている。1話でありすが可能性を見出したように、桃華もまた彼の目に宿る光に触れ、無根拠に天を信じた。

櫻井桃華の蜘蛛の糸が切れなかったのは何故か。彼女が我(≒台本通りの振る舞い)を捨て、仏陀の救済(ロープ)を信じ、自然体で飛び降りたからだ。仏陀を信じることとは、アートマンの非実在、自身が変わりゆくこと(諸行無常、万物流転)を信じることである。

イメージが振る舞いを規定するのではなく、振る舞いがイメージを規定する。どんな私にでもファンはついて来てくれる、櫻井桃華はかくして悟りに至った。

結語

桃華は分離した。しかし、「大人らしさ」からの分離という解釈では不十分である。彼女は煩悩から分離し、悟りへと合した。

アルカイック・スマイル

愛なら いくらでも差し上げましょう
けっして尽きることのない愛を

『愛の讃歌』

櫻井家の令嬢として生まれ授かったものを世界に還元すること。Noblesse Obligeの精神の下に人々に高貴なる愛と勇気を捧げること。櫻井桃華のアイドルとしての夢はまだ始まったばかりだ。


こどもの日はU149で決まり!

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