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欧米人という人達は、誠に不思議な人達です。「寿司の国という表現に、蔑すみを感じますか?」と日本人に聞きもしないで、勝手に差別認定するとは…。これこそ「日本の事も、勝手に決めて良い」という優越的差別目線だと思います。●室屋成に「寿司の国」で炎上の解説者、契約打ち切られ反論。「ノルウェーをフィヨルドの国と言うのと同じ」


ドイツ2部のハノーファーに所属するDF室屋成に対するコメントが人種差別的ではないかとして騒ぎになった解説者のヨルグ・ダールマン氏は、ドイツ『スカイ』の解説の仕事から降ろされることが決まった。本人は不当な決定であるとして抗議を行っている。  
ダールマン氏の発言が物議をかもしたのは、今月6日に行われたエルツゲビルゲ・アウエ対ハノーファー戦の解説を行っていた時のこと。室屋が決定機を逃したあとに発した、「ハノーファーでの最初の得点になるはずだった。彼の最後のゴールは寿司の国でのことだ」というコメントだった。
日本を「寿司の国」と表現したことに対し、SNS上の一部ファンからは人種差別にあたるのではないかとの声も上がった。ダールマン氏がSNSで反論したことも火に油を注いで騒ぎを大きくし、『スカイ』に対して同氏をクビにするよう求める意見もあった。  
ダールマン氏は過去にも選手に対する侮辱的発言などで炎上したことがあり、いずれにしても今季で契約は打ち切られると予想されていた。だが『スカイ』は今季末までとなっていた残りの契約期間にも同氏を起用しないという決断を下した。  
ダールマン氏は13日に自身のインスタグラム公式アカウントでメッセージを投稿。「残念ながら終了を受け入れた。スカイは6月の契約満了まで待つことを望まなかった」と、不本意ではあるが決定を受け入れたことを表明している。
だが同氏は、「寿司の国」発言に人種差別的意図がなかったことも改めて主張。「寿司の国というのは日本の別名でしかない。ノルウェーをフィヨルドの国と言うのと同じだ。一部の人がそこに人種差別的背景があることにした。自由なジャーナリズムに対する“ソーシャルヘイター”の勝利だ」と述べている。  
ダールマン氏はさらに、「寿司の国」という表現は「数え切れないほど多くの日本人が認めてくれたが、彼ら自身も誇りを込めて使っている。全く人種差別だとは考えていない」と説明。この発言を理由に『スカイ』を離れざるを得なくなるのは「全く良くもないしフェアでもない」としている。
【引用終わり】
欧米人と言う人達は、誠に不思議な人達だと思います。
日本を「寿司の国」と表現するのが差別か否かを判断する際には、少なくても日本人に「日本を寿司の国という表現されると、蔑すまれていると感じますか?」と世論調査をしてからにするのが筋だと思います。
日本人に聞きもしないで、「自分がそう感じる」から差別認定するという事こそが、「日本のことも、自分達のフィーリングで勝手に決めて良い」という、欧米キリスト教徒の優越的差別目線であると、私は感じます。
ただ、今回のダールマン氏排除の件では、目的はダールマン氏の排除であって、「寿司の国が侮蔑的・差別発言だ」というのは単なる口実のような気がします。
最も「寿司の国が侮蔑的・差別発言だ」とSNSで抗議した人達は、理性でもって「この発言を口実にして、ダールマン氏を排除しよう」という目的意識を持っていた訳ではないと思います。
例えば、トランプ前大統領は人種差別主義者だと思い込んでいた人達には、トランプ氏の「メキシコとの間に壁をつくろう」という発言は、不法入国者を減らす為の方法を提案しているのではなくて「反人道主義の差別発言に聞こえた」ようです。
これと同じように、ダールマン氏は差別主義者だと思い込んでいた人達には、「寿司の国」が差別発言に聞こえたのではないかと思います。なぜならばダールマン氏が差別主義者ならば、日本人の室屋成には差別感情をもっているはずなので、室屋成には差別発言をするはずだからです。
つまり、トランプ前大統領やダールマン氏に差別主義者のレッテルを貼っていた人達には、彼らが何を言っても差別発言に聞こえる状況になっていたのだと思います。
最も、「○○さんは、こういう人だ」という前提条件をもって発言を聞いていた方がよい場合もあります。
例えば、中国政府が「南シナ海は2千年前から、中国の海だ」という発言は、中国人は「自分達の都合のよい歴史や事実を作りだす傾向がある。=平気で事実無根の嘘をつく」という前提条件をもって聞いていた方が、実害はありません。
しかし、だからといって、「トランプ前大統領やダールマン氏は自分が差別主義者だと感じるから、他の人も彼ら二人を差別主義者だと判断すべきだ」。そして、「みんなで、トランプ氏・ダールマン氏を糾弾して排斥すべきだ」というのは、いわゆる《魔女狩り》だと、私は思います。
トランプ前大統領やダールマン氏を自分が差別主義者だと感じるか否かは、その人個人の感想であります。心はままならぬものですので、自然に湧き上がる感想・感情はその人物がにもどうすることもできないものです。
ですから「ダールマン氏を、自分は差別主義者だと感じる」とSNSに呟くのは、個人の自由です。
しかし「ダールマン氏は、差別主義者だ」は、(ダールマン氏が、自分で差別主義者だと認めないかぎり)本来はNGのはずです。
本来司法が、ダールマン氏のいうソーシャルヘイトに支配されていないのならば、「ダールマン氏は、差別主義者だ」と断じる事は、名誉棄損になるはずです。しかしながら、今の欧米社会では、司法関係者の中にもソーシャルヘイトに一役買っている人が多数いる為に、言論の自由が脅かされている状態になっているのであります。
つまり、魔女とレッテルを貼られた人には一切の弁明が認められずに殺されたように、現在では差別主義者とレッテルを貼られた人には一切の弁明が認められずに社会的に抹殺されるのです。
即ち、現在の欧米社会は、なんだかよくわからない・誰が決めたのかもわからない社会的善悪基準に従わないと、社会的に抹殺されかねないという意味では、全体主義社会です。
実際、欧米キリスト教社会に属する人達は、全体主義の傾向があります。

今回も「寿司の国という表現に、蔑すみを感じますか?」と日本人に聞きもしないで、自分達で勝手に差別認定しています。これこそ「日本の事も、自分達が勝手に決めて良い」という優越的差別目線です。

しかし彼らは、自分達がどれ程変な事をしているかに、気が付いていません。最もだから、全体主義社会なのですが、無意識にやっているだけに危険なのであります。

常識で判断すれば「ドイツはビールの国」「フランスはワインの国」「イタリアはバスタの国」というのと、「日本は寿司の国」というのは同質だと気が付くはずです。

ところが「日本は寿司の国」は差別発言になってしまう。

なぜだ?

私は、抗議している人達の方に日本に対しては差別感情があるので、日本は寿司の国でも、日本は相撲の国でも、日本はフジヤマの国でも、どんな言葉でも差別に聞こえるのではないかと、推測します。

だから、抗議の声を上げた人達こそが、差別感情をもっているような気がします。少なくても、「自分が差別を感じれば、日本人が差別を感じなくても、それは差別だ」という傲慢さはあります。

ところが、そんな人達こそが「自分達は差別をなくそうとしている」と主張しているのです。世の中さかさまで、だから、話し合いが出来なくなっています。

話せばわかる状態ではなくなっています。

ダールマン氏は、この状態を「自由なジャーナリズムに対する“ソーシャルヘイター”の勝利だ」と言っています。

私は、近頃イギリスでメーガンさんを批判してニュース番組の司会を降板させられたモーガンさんも、言論の自由を封殺する“ソーシャルヘイター”によって降板させられたのだと思います。そしてトランプ前大統領も、“ソーシャルヘイター”によって集中砲火にさらされ続けていました。

ですから、現在アメリカの内部抗争は、「“ソーシャルヘイター”からの自由を求める、トランプ派の反撃なのだ」と私は観察しています。

メーガン事件で、イギリスもこれに続きますかね?

いずれにしても、欧米キリスト教文明圏では、自由の獲得の最終段階にあるのではないかと、私は考えます。

欧米では、

14~15世紀の宗教戦争で、キリスト教の教会を批判しても殺されなくなった。

18世紀からの市民革命で、政治権力者・国王を批判しても、逮捕投獄され死刑にされることはなくなった。

そして21世紀・現在のトランプ革命で、社会的善悪基準に従わなくても、社会的に抹殺されることが無くなる(だろう)。

と、思います。

現在の中国は、欧米の市民革命前と同じで、「政治権力者・中国共産党主席を批判すると、逮捕投獄され死刑にされる」という所ですが、これは精神の自由度いう面でみれば、「昔は自由だったが、今縛られようとしている」ので、欧米社会とは逆に進んでいます。

日本・中国・朝鮮半島=東亜3ケ国の統治方法は、「何を考えていても良いが逆らうな」でした。ですから、政治権力者が、一般庶民を集めて「神様は善で正しい」「皇帝は素晴らしい」というような教育を施す場所=教会などはつくりませんでした。

即ち、(近代にいたるまで)政治権力者や宗教指導者が一般庶民の精神の自由に関与する事はありませんでしたので、東亜3ケ国は、教えられなかったので《精神の自由度》100%でした。

ところが、日本では明治以降、学校をつくりました。中国でも第二次大戦後学校をつくりました。朝鮮半島も今は学校があります。

つまり、欧米とは逆をいっている訳です。

ここの所を抑えておかないと、日本は真似しない方がよい事まで、欧米の真似をしてしまう事になってしまいます。

今、欧米の自由主義者は「社会的善悪基準に従わなくても、社会的に抹殺されないようにしよう」と頑張っています。

しかし日本は、元々が「社会的善悪基準に従わなくても、社会的に抹殺されない」社会だったのです。日本は村八分を我慢したり、何処か生きやすい所で生きれば、それでよかった社会なのです。

ですから、「日本国民として○○の意識をもて」と、強制されるようになったのは、戦争の頃からです。

日本国民は、戦前・戦中は、軍国主義を強制され、戦後は自虐史観を強制されました。

ただ、欧米と違って期間が短かったので、多数派の人達は自虐史観を強制されても知らんふりするだけで、精神にいれることを拒否する人の方がはるかに数が多かったのです。

声なき声というやつです。

つまり「“ソーシャルヘイター”からの自由を求める」といっても、日本では“ソーシャルヘイター”となっているのは、マスコミと一部政治家とその支持者ぐらいの少数派です。

だから、日本ではBLMデモなどをしても、反応が少ないのです。現実の日本は、今も「やりたい人は、やっててください。でも私に迷惑かけないでね」という社会なのです。

本日こうして、ずらずらと書いていて、では何を言いたいかと言えば、結局、「自由でいたい」のであれば「やりたい人は、やっててください。でも私に迷惑かけないでね」しか無いのだと思います。

「私の善悪基準では悪になる事は、誰もしてはいけない。そんな人間は皆でやっつけよう」という社会では、人々が相争うだけなのです。(だから、欧米はずっと、宗教やら主義やらで、殺し合っているわけです)

ですから「私は善だ。私は正義を推進するぞ」というのは、ヒーローぽいですが、そこに「反対する者は悪人だ」がつくと争いのモトだ=諸悪の根源になると、皆で意識した方がよいと思います。

平和に生きるには、日本の「人に迷惑をかけない」です。だから、あまり格好はよくなくても日本人は自信をもって意見を述べた方がよいと思います。

「やりたい人は、やっていて下さい。思いたい人は思っていて下さい。でも (自分の意見を他人に押し付ける事で) 私に迷惑かけないでね」と…。

ですから、本日、私は

「寿司の国が差別だ(侮辱だ)と思いたい人は、勝手に思っていて下さい。多分、あなた達は生魚を食べる事を野蛮だと感じるから、寿司の国は差別だと感じるのでありましょう。

しかし、その自分の感情を他人に押し付ける事で、寿司のうまさを一負の外国人も解ってくれたと喜んで、外国人観光客招致に役立てようとしている日本人の邪魔をしないで下さい。日本に迷惑かけないで下さい」と申し上げたいのであります。

(追伸)

ちなみに私は、生の魚が食べられない為に、生寿司を食べない少数派の日本人であります。しかし多数派日本人が生寿司を食べていても、日本が野蛮だとは思いませんし、一部外国人も生寿司に舌鼓をうってくれるのを喜ばしく感じています。だから、ダールマン氏の「寿司の国」発言を侮辱とは感じません。逆に今回(自分が気に入らない)タールマン氏を降板させる口実に日本が使われたのは、偉い迷惑な事だと思います。

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