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真夏なのに、春うららだった 『神様の近くのタクシー運転手さん #01』

7月から一人旅をたくさんしている。

「やりたいことをやれるようになるには、まず1ヶ月以内に行きたい場所に行くと決めて、実行するといいよ。そうすると自信がつくから。できるだけ遠くね。お金や時間がないって思うかもしれないけど、案外なんとかなるから」

友だちの「青ちゃん」の言葉を信じて一人旅をしてみたら、本当になんとかなった。味を占めた私は、日本各地の気になる場所に行こうと決めた。

旅の目的地は、神社が多い。
母の信仰の影響もあって、子どもの頃からずっと神社は恐ろしくて遠い存在だった。ところがどっこい。つい数ヶ月前、導かれるようにして近くの神社に参拝したら、とても満ち足りた気持ちになれた。神様は確かに存在していて、私がお参りするのを喜び、微笑んでくれていると思った。

そうなると、とにかく色々な神社にお参りして、たくさんの神様にお会いしてみたい。
というわけで、厳島神社に始まり、出雲大社、伊勢神宮、寒川神社などなど、有名な神社を中心にどんどこ巡っているところだ。

大雨だったのに、フェリーが宮島に着いた途端、雨がやみ晴れ間がのぞいた厳島神社の旅。
朝5時にファミマでジップロック入りのタンクトップを買い、稲佐の浜の砂をそのジップロックに詰めてお参りした出雲大社の旅。
多賀宮で一人きりになれて、何も言葉が浮かばずただ手を合わせた伊勢神宮の旅。
本当は行くつもりがなかったけれど、早朝にXのトレンドに上がっているのを見かけて急遽向かった寒川神社の旅。

どの旅でも、私を良き未来へと歩ませてくれる奇跡がたくさん起こった。そして、その奇跡のいくつかは、それぞれの土地のタクシー運転手さんが運んできてくれたり、一緒に体験してくれたりした。

全部一人旅だけれど、一人ぼっちではなかった。旅を終えた今も、タクシー運転手さんと出会えた温かい喜びはじんわり残っていて、指先まで循環している感覚がある。目をつぶったり、手のひらを軽く開いたりしながら、旅した土地に意識を向ければ、ハンドルを握る運転手さんたちの襟足や、一直線に流れる車窓の景色が浮かぶ。

橙色の光の玉のような記憶の核はいつまでも失われないけれど、その周りの情報はだんだん輪郭がぼやけて、風とともに吹かれてしまう。運転手さんの顔や声、名前、目的地に降り立ったときの足の裏の感触や、頬にまとわりつく湿気といった細かなディテール。
すでに吹かれてしまったものもたくさんあるけれど、おぼろげだからこそ滲む美しさもあるのかなと思い、noteにタクシー運転手さんとの出会いを記しておきたい。(ディテールが鮮明なとき、核のみが残ったとき、どのタイミングで書いても、記憶の価値は損なわれないと思っている。輝き方が違うだけで、全て美しい。だから、書きたいときに書けばよいなと感じる)

一人旅でタクシーに乗った初めての土地は、出雲だった。

「出雲を訪れたなら、須佐神社にも行くといいよ」

旅1日目の晩、神社に詳しい青ちゃんがそう教えてくれたので、すぐさまGoogleマップを見た。おぉ、なんと宿から26km……!バスを乗り継いでも行けるけれど、トータル3時間。しかも最寄りのバス停から1時間歩くらしい。やあ、厳しい!ペーパードライバーなのでレンタカーも厳しい。となると、タクシーしか選択肢がない。「タクシー代、いくらかかるんだろ……」と頭をよぎったけれど、「せっかくここまで来たんだから、行くっきゃないっしょ!」と腹をくくった。

翌朝、早々に宿をチェックアウトし、とりあえずタクシーがいそうな出雲大社前駅に向かう。駅まであと5mというところで、1台分しかないタクシー乗り場に白いタクシーが颯爽と走ってきて「キュッ」と停まった。あまりにも絶妙なタイミングに、ちょっと喜劇みすら感じた。こんなの「私のために来てくれたのね……(トゥンク)」とならないほうが難しい。

白いタクシーの運転手さんは、灰色のハリネズミのトゲを柔らかくしたような髪型で、とてもおっとりとした声をしていた。

「須佐神社ですね、はい、はい。あそこはとてもいいところですよ〜」

季節は真夏だったけれど、運転手さんが話すと春うららな心地よさが流れる。たっぷり時間をかけて干したふかふかのお布団に、ごろんと寝転がる幸せを思い出す。ほどよく効いた冷房と、窓から差し込む強い日差しと、運転手さんの乾いた木のような匂いがすごくいい感じに合わさって、この穏やかな空気を生んでいるのだなぁと思う。

運転手さんのお名前を失念してしまったので、ここからは仮で春田さんと書かせてください。

「あそこは山の中にありますからね、車じゃないとなかなか行けないんですよね。でも本当にいい空気が流れてますよ。お客さんも行って良かったと思うはずですよ。うん、うん」
「江原さんっているでしょう? 江原さんが須佐神社をパワースポットとして紹介したらしいですよ。あそこにある大杉に触るとご利益があるそうです。確かにあの大杉には不思議なオーラがありますねぇ」
「トンネルができましたからね、これでも昔よりは近くなったんですよ。もう少しで着きますからね〜」

須佐神社に行く道すがら、春田さんは須佐神社のことをたくさん教えてくれた。それらの言葉のすべてに「あなたはこれから本当によい場所へ行くんですよ」と優しく肯定してくれる響きがあって、私はなんだか鼻が高くなってしまう。
そして、間違いなく素晴らしい場所を目指すとき、そこに辿り着く前からもう幸せになれるんだなと思った。信号のない山道をなめらかに走ろうとしてくれる春田さんのさりげない気遣いとか、ふと会話が途切れた瞬間に見上げた山と空の境界線の美しさとか。そうした言葉にならない豊かさが、春田さんのほわほわと温かい言葉と一緒に、私の胸にきちんとしまわれていった感じがする。

ようやく辿り着いた須佐神社は、もっと険しくて厳かな場所かと思ったけれど、よい意味で素朴で、ひらかれている印象を受けた(神社に素朴という表現がふさわしいのかはさておき)。
春田さんは「メーターを止めておきますから、気にせずゆっくりお参りしてきてください」と言ってくれた。「いや、そんな、悪いのでメーターは大丈夫です……」とモゴモゴ話す私に「大杉に触るのも忘れずに」と念を押す。

拝殿にお参りしたら、「ここまでよく来てくれましたね」「待っていましたよ」と神様に言っていただいたようで、胸がいっぱいになってしまった。春田さんとのドライブで既に幸せ満タンの胸に、さらなる幸せを詰め込むものだから、もう大変なボーナスである。
ちなみに、須佐神社を検索してみると「厳しい」「怖い」といった言葉が一緒に出てくるけれど、私は須佐神社の神様に「お父さん」のような懐の深さを感じた。私のお父さんではなく、概念としての「お父さん」である。うまく言えないけれど、とてもおおらかな印象を受けた。

春田さんを待たせてはいけない、と少し焦りながら、拝殿裏手の大杉を見にゆく。本殿に寄り添うように、大杉は静かにいらした。「植っていた」とか「生えていた」ではなく、「いらした」がしっくりくる。
1300年もそこにいらっしゃるらしいと知り、ただ圧倒されて思考が止まる。太さ6mの幹がまっすぐに伸びた先を見ようと空を仰ぐも、濃い色の杉葉が覆ってよく見えない。
大杉は木の柵に囲まれていて、幹に触れることはできないけれど、柵からはみ出た根には触れられるようだ。前を歩いていた女性にならい、うねる太い根の苔むしたところを避けて、そっと触ってみる。きっと皆同じところを撫でるのか、すべすべとして、かすかにあたたかい気がした。

再び大杉を見上げていると、春田さんがにこにこしながら近づいてきた。

「大杉には触れましたか? ねえ、すごいでしょう」

私がちゃんと目的を達成できたか、気になって仕方なかったのかもしれない。「はい!」とハキハキ答えたけれど、春田さんが「ほら、ここに触るといいですよ」とお手本を見せてくれたので、もう一度触る流れになったのが我ながらおかしい。二度目の根の感触は、春田さんの手のひらの熱が加わった分、もっとあたたかく感じられた。

「おみくじはひかなくて大丈夫ですか」
「ひきます!……あっ、大吉だ!!」
「おおお、大吉なんてなかなか出ないのにすごいなぁ。そうそう、このパンフレットも持って帰ったらいいですよ」
「あっ、いただきます!!」
「良かったですねぇ」

春田さんが実のおじいちゃんみたいにお世話をしてくれて、大充実のお参りになった。
最後に「思い残すことはないですかねぇ」と聞いてくれた春田さんに「大丈夫です、ありがとうございます!!」とめいっぱい大きな声でお礼をしたら、「ふぉふぉふぉ」と微笑んでくれたのが嬉しかった。

帰りは出雲大社まで乗せてもらった。何をお話ししたのかよく覚えていないのだけど、宍道湖以外のしじみも美味しいとか、出雲大社の日章旗は75畳分もあるとか、そういうのどかな話題が多かった気がする。真夏なのに、やっぱり春を感じる、穏やかで不思議な帰り道だった。

出雲大社の大鳥居の前の信号で降りるとき、「ありゃ、こんなにお金かかっちゃったねぇ」と申し訳なさそうにしてくださった。早く降りなければと慌てていて「全然です!!」と答えるのが精一杯だったのが、少し心残りです。むしろ金額以上のサービスをしてくださって、本当にありがとうございました。

須佐神社はすっかり私の魂のふるさととなった。この秋に再びお参りする予定なので、春田さんに再会できるかもしれない……と少し期待している。


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