なぜ生きづらい世の中なのか

ひとりはみんなのために
みんなはひとりのために
という言葉があるけれど、なんとなく嫌い。
ムカムカするのだ
本心を隠して取り繕った言葉のように聞こえて。

だって、これまで世の中は
「ひとりはみんなのために」という思想によって
あまりにたくさんの犠牲を出してきたじゃないか。

この言葉には、「いざとなったら、みんなもあなたのために動くから、あなたはみんなのために命を懸けなさい」と言われてるんじゃないかとさえ思えるのだ。

もっと正確にいうと、わたしは
社会(組織、国家、秩序)のために、個人が犠牲になるのが見てられない。許せない。怒りがわいてくる。

これだけ科学が進歩し
物質的に恵まれた世の中であるはずなのに
なんでこんなにも生きづらいのかということに
素朴にずっと課題意識がある。

衣食住にほとんど不自由なく過ごせるはずなのに
日本に自死が絶えないという事実。
自死について調べたことがあったが、
人は「よりよく生きようとする」動物らしい。
精神的肉体的に追い込まれ、
状況を改善する選択肢が死ぬことしか思い浮かばなくなったとき、人は自死を選んでしまうのだそうだ。
自死を選ぶ人は、死にたくないのだ。
よりよく「生きたい」のだ。
生きたいのに、ただ他の選択肢が見えなくなってしまったのだと思うと本当に心が締め付けられる。

原因は何なのか。
株式会社LITALICOのビジョンの中にヒントはある。
(LITALICOは障害をもった児童の支援事業などをしている会社)

障害は人ではなく、社会の側にある
社会にある障害をなくしていくことを通して
多様な人が幸せになれる
「人」が中心の社会をつくる

わたしはこれを思い出すとき、
「そうだった。障害は社会の側にあるのだ」
と何度でも何度でも心の中で唱える。

一生懸命ということばがある。
よく一生懸命がんばれ!一生懸命に生きろ!などという使われ方をする。

でも思う。
生きている時点で、すべての者がすでに、
一生懸命にがんばっている。
すでに一生懸命に生きていると。
"一生"に、一つの"命"を懸けて生きているのだから。

だから、もう誰か個人を責めるのはやめてほしい。
問題(障害)は個人にはないのだ。


生まれてから死ぬときまで
自分のコントローラーは自分が握る。
誰かにコントローラーを握られてたまるか。
誰か(他者、社会の差別、考えの押し付け)に
ゲームオーバーにさせられてたまるか。

生きたいようには生きられない。
しかも、「みんな」のために「ぼく」が生きられないのだったら、間違っているのはぼくではない。
みんなが変わるべきなのだ。

生きづらさを感じる人が少しでも減るように。
誰もが生きたいように生きられる社会に。

変わっていけたら、変えていけたら。

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