エルピスが描かなかったもの

私は『エルピス』を実家で常に流れていたいわゆる2時間ドラマとの比較で観ていた。我が家では母親の趣味から四六時中各局のサスペンス、刑事ドラマ、探偵もの、〇〇の女、そして冤罪物といった2時間ドラマといわれる類のドラマが再放送なども含めて常に流れていたのだ。その中でも冤罪物は、よくある展開で、刑事、弁護士、検察官、裁判官、新聞記者、主人公たちの立場はそれぞれあれど、いわゆる"99.9%"の壁を越えようとする多くの物語が紡がれてきた。
そういった物語を踏まえた上で『エルピス』を観て最初に感じたのは、事件そのものの単純さである。冤罪物で大きな謎となるのは真犯人は誰かという点だが、同作では10話中わずか3話で真犯人にたまたま遭遇する。名前も、事件との関わりすら判明していないその段階ですでにその怪しすぎる演出から、観客たちは彼が真犯人であることを悟らされる。
そう『エルピス』は、殺人事件を扱う数多の2時間ドラマと異なって、ミステリーの要素は欠片もないのだ。検察側の主張は再現すれば一発でわかるように偽りのもので、被告が本当は犯人かもしれない可能性なんて1ミリだってなく、被告が犯人だと裏付ける証言は明らかに怪しい素行の悪い男のもので、都合よく真犯人は新たな殺人を犯して証拠を残してくれる。『エルピス』は、事件そのものを知るためのミステリーではなく、明らかに正しい真実を世に出すために奮闘するおしごとドラマだ。
だからこそ、このドラマの作り手も受け手も、その関心は、謎に包まれた事件の構造や実際に起きた事実を明らかにすることにではなく、すでにわかりきった事実に対して、自らがどう態度表明するかという点に注がれている。

それは例えば、長澤まさみ演じるアナウンサー浅川恵那が患う、食べるということがうまくできなくなるという症状、彼女が冤罪を追うと決めたときの「飲み込みたくないものは、飲み込まない」というセリフに象徴されている。彼女にとって死刑囚の冤罪を晴らそうとすることは、世界を良くするためのものでも、世界を知るためのものでもなく、彼女自身が世界を信じるためであり、9話で彼女が飲む精神薬と役割としてはほとんど同じだ。

その点、もうひとりの主人公である岸本拓郎は、直接事件を取材し、現場を見て関係者の話を聞き、自身の身なりも気にせずに「僕の友達は真実だけだ」といってしまえるほど、事件そのものに入れ込んでいく。だが、その取材の中で関係者が死に追いやられたことへの罪悪感から、彼は報道を諦める。そこで押しかけた浅川とのやり取りの中での以下のセリフから、岸本の報道や存在が「希望」であったのだと物語上で示唆され、浅川と岸本は再度、報道するために動き始める。

「そうか、あのさあ、希望って誰かを信じられるってことなんだね。岸本くん。ありがとう。今日まで目の前にいてくれて。」

このセリフは、ドラマタイトルどおり、自分の取材が”災い”となって一人の人を死に追いやったと罪悪感を抱える岸本に、それは同時に”希望”でもあるのだと気づかせる重要なセリフだ。けれど、ここで今一度考えたい。報道が「災い」でも「希望」でもあるという時、それは誰にとっての「災い」で誰にとっての「希望」なのか。

前述のセリフ、岸本が以前浅川の存在が希望であったという言葉に対比された言葉であるが、直接的には、岸本が取材し、亡くなった取材元の「いま僕は少し神様に感謝しました。このことをそういう岸本さんという人に預けることができるのだと思うとふっと真っ暗闇の中に一筋細い光が指したような気持ちです」という言葉をきっかけに浅川から発せられる。岸本を、報道そのものの意義を「希望」と肯定する言葉は、同じく報道する側の浅川から、報道の犠牲になって死んでいった人の言葉を”搾取”する形で、自己肯定的に繰り返されるのだ。

思えば、このドラマにおいて報道のもつ「災い」の面の影は薄い。冒頭では、被害者遺族から水をかけられたり、弁護士がマスコミ嫌いだったり「災い」の爪痕は描かれるが、浅川や岸本自身による報道は驚くほど取材元から受け入れられる。彼らの報道により証人が失踪しても別の証拠が見つかるし、報道に対抗する形で被害者が売春をしていたことを流されても、被害者遺族たちが彼らを非難しに乗り込んできたりはしない。再審が棄却されても、チェリーは浅川や岸本ではなく自身に対して自殺未遂という形でその絶望を向ける。そして取材がきっかけに死に追いやられても、被害者はテープの中で彼らを肯定する言葉を残してくれる。そう報道ができない被害者としての側面から浅川たちは「希望がない」と叫ぶが、彼ら自身が加害者かもしれない可能性はこのドラマでは描かれない。

このドラマの、黒幕である大物政治家の別のスキャンダルを報じない代わりに、当初から追いかけていた冤罪の真犯人を報じるという結末には、批判も多かった。結局、悪は倒せていないじゃないかと。だが、その批判そのものが、このドラマ、ひいてはツイッター的な現代で「左翼」と呼ばれる人たちへの、私の違和感を象徴している。その違和感は一言で言えば、そこに当事者たちがいないこと、にある。
ジョージ・オーウェルの『1984年』には、人々を上層、中間層、下層に分けて、人間の歴史を振り返り、上層が倒される時について以下のように描写する。

「上層は、自由と正義の為に戦っている振りをして下層を味方につけていた中間層によって打倒されるのだ。中間層はというと、目的を達成するや否や、下層を元の隷従状態に押し戻し、自らは上層に転じるのだ。」

そうこのドラマ自体も、このドラマの結末を批判する視聴者も、両者の仮想敵である斎藤のセリフ──世界情勢が緊迫する中、スキャンダルによって政権交代が起きると混乱が起き、この国の人々に悲劇が起きるという思想──と同じ点で空虚だ。なぜなら誰一人として、自分が選んだ選択肢により傷つく当事者がいるという事実に目を向けていないからだ。斎藤の思想が、「国民」という大きなものを守るための小さな犠牲はやむを得ないという姿勢が、その犠牲を見ようとしていないことは明らかだが、同時にこのドラマも「報道」によって傷つく人がいる事実と向き合っているとは言い難い。そして結末に対する批判も、あの場でどちらのスキャンダルも公表しようと清き立場をとることは気持ちがいいかもしれないが、結局松本死刑囚の冤罪を晴らす可能性はさらに小さくなっていく。彼らは皆、「中間層」であり、彼らの目には「下層」の人たちは映っていない。最後に、思い出したかのようにこれまで存在感の薄かった松本さんとチェリーさんの姿を映すこのドラマのエンディングでは、いつも、浅川はテレビ画面の中でケーキを作るばかりで、そのテレビの前でケーキを食べるチェリーを見ることも、彼女と向き合うこともしない。
このドラマで、現代の理不尽に対する怒りを、そして希望としての報道を描くのであれば、浅川たち報道に関わる側にとっての災いではなく、ほんとうの意味で理不尽にさらされている当事者たちが、生きていくために飲み込みたくないものを飲み込まざるを得なかった人たちの怒りを、報道そのものが災いとなってきた現実を、描くべきだったように私は思う。

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