藤本タツキが描くもの〜虚構と現実のウロボロス〜

1.はじめに

 藤本タツキの作品を読むとき、思い出す記憶がある。それはおそらく中学生の私が同級生とある作品について授業内で討論をしているシーンで、『愛のサーカス』というその作品のあらすじはざっと以下の通りだ。(なお、当時の教科書はすでに手元になく、書籍も絶版になっているようで手に入らなかったため、純粋な記憶により記述している。細かい部分の齟齬に関しては許されたい。)

ある町に来た貧しい少年が、その町の中で町の人々と交流をしていく。様々な出来事から少年と彼らとの間に信頼関係たる「愛」が生まれたその瞬間、その少年、および彼が町の人々と築いた「愛」が、サーカスの興行の一部であったことが、サーカス団の団長により暴露され、団長はその見物料として町の人々から見物料を徴収する。

私の記憶ではその『愛のサーカス』を読んだ上で、クラスでは「少年と町の人々との間にあったものは愛と呼べるのか」というようなテーマで、討論が行われ、私は「それは愛である」という立場になった私は、討論相手の「愛にお金が発生するのはおかしい」という論理に対し、「映画だってお金を払って愛を見に行くではないか」と反論をしたのだ。

 なぜ今になって10年も前の自分の立論を思い出したのか。なぜこんな面白くもない思い出話をこの長くなりそうな文章の冒頭に、字数を割いて書いているのか。それはこの話が象徴するのは、決してディベートのテーマである「それは愛だったのか」などというものではなく、むしろ虚構と現実の問題(町の人々が怒るのは、お金を払わなければいけない──自分たちが観客だったとわかる──からではなく、サーカスの少年と築いた関係性がサーカスの興行の一部だと暴露される──自分たちが虚構の中の登場人物であったことがわかる──からだ)であり、そしてこの〈虚構と現実の問題〉こそ、藤本タツキが描いてきたものだからである。

 以下では、彼の初の連載作品『ファイアパンチ』、アニメ化もされ代表作とされる『チェンソーマン』のうちすでに完結した第一部、その後読み切りとして当時無料公開され、SNSなどでも話題になった『ルックバック』の3作について論じることで、藤本が〈虚構と現実の問題〉について何を描き、逆に何を描き得なかったのか考えたい。


2.『ファイアパンチ』が描いた虚構と現実の関係性

(1)映画における「監督」と「主人公」
 藤本タツキの最初の連載作品『ファイアパンチ』は、〈虚構と現実の問題〉を描いていると聞いて違和感を持つ人は少ないだろう。「私が監督でキミが主人公」とセリフがあり、映画におけるショットを模したコマ割り(とそれに関するメタ的な言及)や繰り返される映画館のシーンから、読者はこの作品が、作者自身が好きだと名言する「映画」に関する作品であると否が応でも気が付かされる。実際、『ファイアパンチ』において描かれるものを考えるにあたってまずキーワードとなるもののが先に引用したセリフ通り「監督」と「主人公」である。 よって以下ではまずこの作品において「監督」としての機能をもつ2人の人物と彼らが“監督“した物語の「主人公」たちに着目したい。

1人目は、映画好きと明言し、“映画を作る“ために主人公と行動をともにするトガタである。彼女自身アグニとの出会いの場面で、アグニが「主人公」で自分は「監督」であると発言している。そしてその宣言の通り、アグニ(主人公)は、復讐という物語のために、トガタ(監督)の暗躍のもと、ドマ(悪役)のいるバハムドブルクへと向かう。だが、その途中でアグニは幼い頃の自分の幻覚を見て、脚本(虚構)の外に出て、目の前の奴隷たちを救い出してしまい、トガタの脚本は「台無し」になってしまう。その後もトガタはアグニを神と信じる宗教という名の物語をブレーンとして監督し、アグニにふるまいを指示するようになるが、その折、トガタ自身が「女の体をした男である」と暴露されることで、その監督としての役割を降り、最終的にはアグニを助けて死ぬ「主人公」として死んでいく。

一方で2人目の監督が、トガタと入れ替わるようにして黒幕としての役割を引き受ける氷の女王である。彼女もまたスター・ウォーズの最新作を見るために、いま地球で生きている生物たちの命をユダが木になることで奪い、破壊しようとしている映画の狂信者であり、その破壊と想像の物語を見るために、アグニ(悪役)とユダ(主人公)の双方に悪役であるアグニにユダが勝つように指示を与える。しかし、彼女の指示の一方でユダはアグニに、アグニはユダに「私を殺して」「じゃあぶっ殺してやるよ」と、”役者”同士の閉じたコミュニケーションにより、魔女が描いた物語からは逸脱し、結局ユダは木にならず、魔女の思い描いたものとは異なる物語が進行していく。その後も魔女は、生き残ったアグニ教で教祖となったサンに取り入る形で、アグニ教という宗教を“監督“するが、アグニを信奉するサンにより邪教徒として殺されてしまう。その様は、魔女がアグニに対して語った悪役(登場人物)としての役割がブーメランのように突き刺さる。

「私は映画を見るとき悪役を一番見るんだ 悪役が大好きだからね 悪役はどちらかに偏っていて自分の中の価値観を信じて戦う 主人公を苦しめて見ている人をすごく嫌な気持ちにさせる でも最後の最後には負けてくれるんだ 主人公に勝利と見ている人にカタルシスを与えてくれる だから私はアグニ君が好きなんだ! キミはべヘムドルグを自分の都合で壊して たくさんの罪なき人を殺してくれた! 後はキミが死ぬだけ!」

そう監督して物語の外から、物語を動かしていたかに見えた氷の魔女も、膨れ上がる物語の中に悪役として引きずり込まれ、最終的には主人公に入れ込み、理想的な観客たるサンに「悪役」として殺されるのだ。

この2人の監督──アグニを主人公、ユダを悪役とするトガタと、アグニを悪役、ユダを主人公としたい氷の魔女──には、「登場人物」たるアグニがその脚本から逸脱することで、脚本の遂行に失敗し、物語という虚構そのものに引きずり込まれ、登場人物の一人──トガタは「主人公」、氷の魔女は「悪役」──として虚構の中でその死を迎えるという共通点がある。

 

(2)映画におけるもう一つのプレイヤー
 ここまでで『ファイアパンチ』における「監督」と「主人公」の関係や、「監督」が「主人公」へと変化していく過程を確認した。そうなると気になるのは、なぜ現実にいたはずの「監督」が、「主人公」として虚構に引きずり込まれるのか、その過程である。その過程について考えていくと、ある一つのことに気がつく。それは映画とは「監督」と「主人公」(登場人物)のみで作られるものではないということだ。そう、もうひとりの重要なプレイヤーが「観客」である。例えばトガタが「監督」から降りた瞬間をたどるとそれは、アグニ教の信者であるマスクの男で、断片的に心が読める祝福を持った人物によりなされた「ひょうきんな女を演じている……女の体に……覆われた男です」という暴露に帰結する。アグニ教の信者であることから、アグニが主人公、トガタが監督して作り上げた宗教のまさしく観客といえると同時に、この人物がもつ断片的に心が読める能力は、それそのものが映画における観客を象徴している。というのも、映画とはもともと情動(エモーション)を動き(モーション)へと変換し表現する芸術であり、映画という変換装置をもとに観客は、本来見えないはずの登場人物の感情を、映画の中の動きによって見ることができるのである。言い換えれば観客は登場人物の心情を完璧には理解できず、映画の中の動きから断片的にのみ心情を推測することができる存在であり、トガタの心を覗き見することで、登場人物へと引きずり込んだ男はその象徴といえるだろう。またもうひとりの監督、氷の魔女を登場人物として虚構に引きずり込むのもまた観客たるサンである。サンはアグニ教の信者(最終的には教祖)としてアグニを誰よりも“見て”きた存在である。サンというキャラクターは序盤で両足を切断されることが象徴するように“動かない”存在として描かれる。そして誰よりもアグニを“見ていた”人物でもある。そうこの“動かず”、“見る”、役割こそ映画館の中で座ったまま主人公を見つめ続ける観客の姿にほかならない。その観客たるサンに異教者として暴露されることで氷の魔女もまた悪役として虚構の中で死んでいく。

 以上から『ファイアパンチ』で描かれていたものは、アグニやユダといった主人公や悪役による虚構としての物語だけではなく、本来ならば虚構と一線を引く現実の側であったはずの監督や観客が虚構へと引きずり込まれていく様であったといえるだろう。そして同時に、サンと呼ばれるようになったアグニが映画館でこれまでのファイアパンチの物語を音のないモノクロの画として鑑賞したように、その虚構──監督や観客といった現実が引きずり込まれたはずの虚構──が現実に飲み込まれていく様が描かれている。この藤本作品特有の現実が虚構に飲み込まれ、その虚構が現実に飲み込まれるといった虚構と現実のウロボロス的様相(2匹の龍がお互いのしっぽを飲み込み八の字を描いている様子)、それこそがこの文章で考えたいテーマである。この後の藤本作品にも引き継がれるこのテーマが変化しながら描いた現代特有の特徴と、同時になおこの様相を描こうとするあまり描ききれずにいるものについてより詳細に論じていく。


2.『チェンソーマン』第一部〜2つの「観客」の可能性〜

(1)監督/観客としてのマキマ
 映画館、カメラ、主人公、監督といったわかりやすいイメージが繰り返されていた『ファイアパンチ』と異なり、藤本タツキの代表作といえる『チェンソーマン』ではそういったテーマはほとんど影にひそむ。だが、それは終盤、マキマの「これからデンジ君が体験する幸せとか普通とかはね 全部私が作るし全部私が壊しちゃうんだ」というセリフから主人公デンジたちの繰り広げてきた物語が創られた虚構であったことが明らかになることで、その隠れたテーマが浮き彫りになる。だがその後マキマはこうも言っている。「私は彼(チェンソーマン)のファンです」これらの発言から、マキマという存在が、監督/観客という虚構に対する現実の側の存在であることが示唆されていることが伺える。

 思えばマキマが虚構に対する現実の側の存在であることは当初から彼女の存在の特権性、遍在性により示唆されていた。彼女は物語のほとんどどの場面においても存在し、能力を発揮できる。特徴的なのが下等生物の耳を借りて音を聞いたり移動したりする能力や、京都から遠く離れた東京の敵を文字通り捻り潰した力である。このように世界に対して、距離や主体を無視して、偏在的に知覚し知覚される存在は、虚構に対する現実側の監督/観客を除いて他にありえない。

だが同時にマキマが監督/観客であるとするのなら、最終的に明かされるマキマの盲目性(「マキマさんはね……匂いで俺たちを見てるんです」)について考えなければならない。確かにマキマは上述した偏在的な能力についても、聴覚(耳を借りる)や触覚(捻り潰す)に限られているし、デンジとのコミュニケーションについては、嗅覚(「体から人と悪魔二つの匂いがするもん」)や触覚(「デンジの目が見えなくなっても私の噛む力で私だってわかるくらいに覚えて」)、味覚(「とりあえずファースト関節キスは……チュッパチャップスのコーラ味だね」)、聴覚(「マキマさんは俺に心ってあると思います?」というデンジからの問いに対してマキマはデンジの心臓の音を聞いて「あったよ」と答える)と視覚以外の知覚で行っている。だが、先程記述したようにマキマが監督/観客といった現実側の存在であるとするならば、むしろ彼女の知覚は視覚が強調されるはずではないだろうか。例えば、『チェンソーマン』の読者たる私達はこの作品の音も、触り心地も、匂いも、味も“見て”感じており、そうした視覚以外の感覚を視覚に変換する装置がマンガであり映画であったはずだ。事実、前述した『ファイアパンチ』においてアグニ教信者の男は、トガタの心を“読み”、サンはアグニの姿を“見た”ことが強調されている(「俺は実際に見て体験したんだ この目で見たんだ 俺が………神に助けを願うとアグニ様がきた……」)。ではなぜ今作ではマキマはデンジことが見えなかったのか。しかもマキマはデンジと映画を見に行き、一本の映画に人生を変えられた事があると話している。ストーリー上この場面はデートであれば何でも良かったはずのこの場面で、マキマが映画を“観る“ことを強調し、それがマキマがデンジを“見る“ことができずに敗れる最終決戦でもセリフの中で強調される(「マキマさん アンタの作る最高に超良い世界にゃあ糞映画はあるかい?」)。この疑問の答えは、マキマが見ていなかったことを明かすデンジのセリフにある。

「マキマさんはね……匂いで俺たちを見てるんです
一人一人の顔なんて覚えちゃいなくて……
気になるヤツの匂いだけしか覚えていない
俺はね 賭けたんですよ
マキマさんが俺じゃなくてず〜っとチェンソーマンしか見てない事に……
俺ん事なんて最初から一度も見てくれてなかったんだ…」

 

そうマキマは見えていないのではない、チェンソーマン“しか見ていない”のだ。ちょうど映画に映された虚構だけを見てわかった気になり、現実を見ない映画愛好家のように。私たちは戦争や災害といった歴史的出来事や、俳優、アイドル、風景などを映画やマンガを通して“見た”気でいるが、その実私たち観客にはそこに映された出来事も人も場所も、実際にはあるはずのスクリーンに空いた穴すら見えていないのだ。それだけではない。私たち観客は往々にして大枠のストーリーやキャラクターに気を取られるあまり虚構のなかの細かな描写も見落とす。(『ファイアパンチ』でサンが言及した“顔が違う”アグニの姿は読者にとっては二度目だが、サンと同様にアグニの“中身”が異なる可能性を看破した読者がどれだけいただろうか。)マキマは『チェンソーマン』世界におけるその遍在性、特権性と同時にその盲目性により二重の意味で「観客」として位置づけられており、前者により虚構たるデンジたちの世界を文字通り“支配”しながら、後者により虚構たるデンジに文字通り“飲み込まれ”ていく前述のウロボロス的構造の一部に組み込まれていると言えるだろう。

 

(2)もうひとりの観客
 『チェンソーマン』の達成は上述の通り、マキマという存在のセリフや知覚を通して直接カメラを登場させることなく、虚構と現実──主人公と観客の──境界を描いたことにあるだろう。同時に本作ではもう一つの達成を果たしている。それが、マキマではないもう一人の観客を登場させたことだ。『チェンソーマン』では、時折、コマを超えて、まるでマンガの外側の人間の手によるかのような表現が登場する(4巻/アキが呪いの悪魔の力を発動する場面、9巻/地獄の悪魔により3人の子供が生贄とされる場面、等)。そう、今作が描いたもう一人の観客とは、『チェンソーマン』を読む私たち読者である。コマの外から刀を弾いたり、写真の人物を消したりといった描写により、読者はこれまで鑑賞していた虚構へ、干渉する可能性を示唆される。それはつまり、私たち読者が『チェンソーマン』において、マキマと同様かそれ以上の特権的な力で干渉する「読者」という登場人物と化していくということだ。確かに、この作品の主人公デンジは他作品の主人公と比べると、読者がその成り代わりとして物語を経験していくにはいささか感情移入がしにくい。デンジの思考が感動的だったり物語の核心を突くような思考に近づく度、その結論は不自然なほど乱暴だったり性的だったり曖昧になったりする(「俺たちの邪魔ァすんなら死ね!」「見つけたぜ……俺のゴール!俺の本気!それは……胸だ!!」「ま!シリアスな事ぁ考えなくていっか!」)(マキマとの戦いを経て「自分で考える様になった」デンジは第二部では主人公ではなくなり、心の声は聞こえない)。また他のキャラクターもその心の声がボイスオーバーとしてマンガに描かれるのは、大抵そのキャラクターの死に際のことがほとんどであり、愛着の湧いた頃にはそのキャラクターは死を迎え、その後の物語はやはり、「読者」として参加せざるを得ない。そして「読者」は偏在的に複数の登場人物たちの視点や過去を鑑賞し、『チェンソーマン』世界を支配していく。同時に、終盤におよぶにあたって私たちは自らの盲目性を意識せざるを得ない。チェンソーマンの眷属や武器人間として私たちが登場人物として知るキャラクターと並んで、私たちの知らないキャラクターが並んだり、「チェンソーマンに食べられた悪魔の名前の存在は過去現在そして個人の記憶からも消えてしまう」という能力により消えた存在として、私たちが現実の記憶として知っているナチスやエイズに混じり、アーノロン症候群や租亜といった私たちの知らない単語が登場する。ここから私たちが『チェンソーマン』という虚構に対して特権的、偏在的に支配しながら、最終的に明かされるのはそんな私たちが虚構の一部として飲み込まれており、私たちの知らない、さらに超越的な物語があるかもしれない可能性である。これにより『チェンソーマン』では『ファイアパンチ』で示唆された虚構と現実のウロボロス的な関係性を、作品の外へと敷衍し、読者そのものを巻き込むことに成功するのだ。

 

3.『ルックバック』が拡大した虚構と現実のウロボロス

 『チェンソーマン』第一部完結後、無料で公開されたことと、その完成度の高さから話題となった読み切り短編『ルックバック』では、主人公が連載を持つ漫画家になるなど、作者と読者という役割が名言され、創作の問題に直接的に言及した作品である。作品内では、2人の少女が出会い、一人の少女藤野は漫画家になり、もう一人の少女京本は美大へと通う中で事件に巻き込まれ死んでしまう。その死が、自分がマンガを描くことで部屋から連れ出したせいだ、と感じマンガを描く理由を疑う漫画家の元に、4コマが風にのって運ばれてくることで、2人が出会わなかったパラレルワールドとしてもう一度物語がやり直されていく。そこで突きつけられるのは、京本が美大に行きたいと思ったきっかけが、藤野が彼女を外に連れ出したことではなく、ましてや藤野がマンガを描いたことはなんの影響もなかったという事実である。藤野の背中を見続けたことで彼女に感情移入していた私たち読者は、京本が画集と出会い、目を瞠るというまさに美大に行くきっかけとなる瞬間を、物語が繰り返される前もたしかに描かれていたコマを見落としていたことを、2周目にしてやっと気がつくのである。ここには前作『チェンソーマン』から引き継がれる読者自身の盲目性が示唆されているといえるだろう。だが本作の達成はここにはない。

前作『チェンソーマン』で「読者」をその虚構に引きずり込むことに成功した藤本は、今作で作者である自身を作品たる虚構に飲み込ませる。メインの登場人物の名前を「藤野」「京本」と作者の名字を分割させる形で名付け、漫画家となった藤野が連載する『シャークキック』は、当時の『チェンソーマン』と同様「アニメ化決定」の文字が踊る。京本が影響を受ける画集や事件当時京本が描いていた絵は『チェンソーマン』の中の実際のコマである。そのためこの作品は藤本の自叙伝的な話と読まれることも多く、また公開された日付が京都アニメーション事件の翌日だったこともあり、SNS上では数々の感想、考察、批判が飛び交い、作品内の事件の犯人が、藤本の統合失調症患者へのステレオタイプだという批判やそれに伴い作品が修正されたことで、それに対する同調や批判など多くの反響を呼んだ(個人的には、本来観るはずの絵から「声を聞」いたとその盲目性が暗示され、「パクられた」との発言から彼が絵の鑑賞者であり、創作者でもあったことがわかるこのセリフにはステレオタイプ以上に表象上の意味があったと感じているが)。これにより『ルックバック』は『チェンソーマン』からさらにその虚構性を広げ、作者や読者といった現実を飲み込み、それにより肥大した現実が虚構である作品そのものを変えていくというウロボロス的循環そのものをエンターテイメントとして提供するに至ったのだ。

 

4、ウロボロス的構造の現代性

 上記より藤本作品が『ファイアパンチ』、『チェンソーマン』第一部、『ルックバック』と虚構と現実が相互に互いを飲み込み、飲み込まれるウロボロス的な関係性を描きながら、その環を拡大し、読者や作者も巻き込みながら拡大してきた様子を読み解いてきた。この虚構と現実の関係性は、ゲームやSNSを通じて虚構に自らが参加することが当たり前になったことを考えると、極めて現代的と言え、それをマンガという旧時代のメディアで成し遂げ、大きな2匹の竜の八の字を描ききった点が藤本の優れた点といえるだろう。そしてそこに藤本タツキ作品の限界もあるように思えてならない。八の字を描き肥大していくタツキエンターテイメントは、『チェンソーマン』にて永遠の悪魔が創り出すホテルの8階のごとく、永遠に広がるように見えて実際には、外からは隔絶された閉鎖空間であり、外部に広がる広大な現実を“描かない”ことでそのウロボロスをユートピア的に拡大させているように見えるのだ。例えば『ファイアパンチ』では、序盤で世界を雪と飢餓と狂気に覆った、この世界の苦しみの元凶たる氷の魔女は実際には存在せず、地球は氷河期に入り、すでに滅びゆく運命にあることがトガタの口から明かされる。その後、氷の魔女を名乗るキャラクターは世界を暖める手段を提示するものの、それは地球やその他の星の生命を奪うことで成り立つという。そうはじめからこの物語は、地球上の生物が死に絶える終わりは決まっており、にもかかわらずキャラクター達はその運命に抗おうとするでもなく、愛と憎しみをめぐって殺し合いを行っているのだ。そうそれはまるで無数の社会課題を突きつけられながらも、それを解決するための議論ではなく、承認と誹謗中傷のゲームを繰り広げる現代のSNSのようだ。同様に『チェンソーマン』でもマキマが作る世界の是非は背景と化し、デンジが“どう”なりたいかという問題により物語が進んでいく(「俺はやっぱりチェンソーマンになりたい その為に………どうやったらマキマさんを殺せるんだろう」)。『ルックバック』では、京都アニメーション放火事件や障害者表象に関して話題にはなったものの、事件の描写はパラレル世界の藤野が突然キックで助けに来るというあからさまなフィクション要素によって、外部に脱出する前に虚構によって飲み込まれてしまう。その結果それらに対する作品のメッセージも作品をめぐる議論も、事件や差別が生まれる生々しい背景に迫ろうとするものは一つとしてなく、その空っぽで永遠に続く閉じた世界だからこそ己一人の当事者性で承認と批判のゲームを闘いぬこうと、エンターテイメントは現実のSNS上で肥大化していくのだ。すでに藤本タツキが描く虚構と現実のウロボロスは、SNS的な永遠に続く8階の中で行くところまで肥大している。藤本タツキ作品が、その閉じた空間の中で終わるのか、そこから出ようと試みるのか、今後に期待したい。

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