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「他者との境界線が極めて低い」ことは、しあわせにつながるの?

「日本の学校では、自分の持ち物に名前を書くよう、教えられますよね。でもここの人は『あなたは私』という精神なので、物に名前は書きません。この島では「私のものは君のもの」ということなのです。島民は他者との境界線が極めて低いのです。私もまだまだ境界線をなくしていこうと訓練してるところですが」

引用:ほ・とせなNEWS

友人である、旅人ライター・マエノメリ史織さんのインタビューデビュー記事がついに公開された。とても楽しみにしていた。

インタビュイーの魂が解放されていくラストあたりで、一瞬ドキッとした。そのあとは、ずっと心臓がバクバクしている。

「あなたは私」「他者との境界線が極めて低い」

このワードに反応してしまったのだ。おそらく私に起きた過去の体験がそうさせている。

実に不思議である。どういうことかというと、同じ価値観をもってしても、もたらす結果が、幸福と悲劇、どちらもあり得るからだ。

フィリピン・カオハガン島では、「あなたは私」「他者との境界線が極めて低い」の価値観が、しあわせにつながる。

一方で、日本では、自他の境界がないために依存的になり、人を傷つける事件が起こっている。

記事を読んでから、これはいったいどういうことなのだろうと、ずっと考えている。

数日後のXでは、イオンシネマでの対応をポストした車椅子ユーザーのNさんが”炎上”していた。

自分にされてうれしいことは、当然に、他者に施す。
自分にされて嫌なことは、当然に、他者にはしない。

この2点を前提として私個人がいつも気にすることは、「みずからの価値観を押しつけていないだろうか」だ。

ひとりひとりの在り方考え方を尊重し、自分がした行動には見返りを求めない。その上で、自身の考え方の”提示”はする。もし否定されたとしても「そう思うのか」と理解につとめる。

たとえ自分の意見が受け入れられなかったとしても、攻撃的になったりするのは言語道断だ。

「あなたは私」「他者との境界線が極めて低い」の2つが、幸福をもたらすのか悲劇になるのかは、個々人の心の持ちように大きく左右されるのではないだろうかと思えてきた。

おおらかな社会であればきっと、ひとびとの心は満たされるはず。

それなら、どうすればそのしあわせな社会が創造できるのかを、考えていきたい。

見知らぬ誰かの生き方は、よりよい社会をつくるヒントになる。



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