見出し画像

一線を越えた、その人は

わたしは死んだことがない。

だから死んだあとには三途の川を渡ったり閻魔大王の裁判にかけられたり、はたまた辺り一面に可憐な花畑が広がっていたりするところがあるのかどうかは知らない。

死後の世界がどうなっているのか、そんなことは死んだことがないのだから分からない。

それでも、死んだ方が楽だと思っていたんだから思考回路は呆れるほどぶっ壊れていたんだと思う。

草木も眠る丑三つ時も、夜明けの刻も、息子を腕に抱きながらわたしはベランダに立った。空が光を帯びてきて、静まり返ったその道にスーツ姿の人が歩いていくのが見えた。そして住宅に阻まれてその姿は消えていった。そろそろ麻痺した腕が限界を迎え、部屋に入って布団にそっと下ろしてみたら眠そうにしていた。いつものように時計を見る。その日息子が寝入ったのは朝の6時より少し前だった。

息子はとにかく眠らない子だった。昼寝もほとんどしないのに、何故夜になっても入眠できないのか不思議で仕方がなかった。それが発達障害のADHDや感覚過敏に深く関わる可能性があると告げられるのはもう少しあとになる。

夜更けの静まり返ったアパートに、息子の喚くような泣き声はよく響いた。抱っこしてもおさまらず今日も寝てやるもんかとわたしの腕の中で顔を真っ赤にして反り返る。0時を回り、「そろそろ行こうか」と夫の声でドライブが始まる。深夜のドライブは生活の一部になっていた。車の揺れは心地いいらしく、どんなに騒いでいてもチャイルドシートに身を収め振動を感じる息子は静かになった。目をつむることも多かった。だから入眠できたのだと思って抱っこし、布団に寝かせると一瞬で目を開ける。

「ぎゃあああああああ」

乳児の背中にはスイッチがあると聞くけど、息子の体は頭から足の先まですべてがスイッチでできていた。それは人間スイッチと呼びたいくらいによくできていて、少しでも何かに触れると泣き出した。急いで抱っこし部屋をうろつくわたしと、ミルクを作る夫。時刻は深夜1時だったり2時だったりした。翌日も仕事のある夫には先に寝るよう促し、ミルクも部屋ウロウロも効かない息子を抱えて、わたしが行き着くのはベランダ。外気に当たると気分が変わるようで、ガラガラとベランダに通じる掃き出し窓を開け表に出ると泣き止んだ。そんな生活が続いた息子生後8ヶ月のときには、自分が今嬉しいのか悲しいのかそういった感情が分からなくなっていた。何があるわけでもないのに座っているだけで涙がこぼれる。息子は今夜もわたしの隣で泣いていた。生きるより死ぬ方が楽だろうと考えるようになったのはその頃。声が枯れるほど泣き喚く息子も眠れなくてつらいんだろう、それなら息子の息の根を止めてあげよう、そしてわたしも後を追えばいい。そんな思いばかりが朦朧と頭の中を占領していった。鬱病だった。

通院しながらの育児は、息子が1歳になるまで続いた。少しずつだけど夜中に1時間とか2時間とか息子が眠るようになっていき、それがわたしの励みとなった。最初の3ヶ月は大変だけど、生後5ヶ月になる頃にはよく寝つくようになるよと、妊婦のとき親戚に言われた気がしたがそんなことはどうでもよかった。息子は1歳になっていたが朝まで眠ることはなかった。それでも夜に眠る時間が現れただけで、生きる意味があるように思えた。

一歳半健診で発達の遅れを指摘され、後日行われた発達健診では何故か医師でもない保健師から息子は障害児だと言い渡された。なにを言われているのか整理できないわたしは忽ちパニックに陥る。二日後には寒気もないのに発熱し、体はどこも悪くないのに頭痛で起き上がれなくなった。鬱病の再発だった。

紹介された療育センターに繋がることができたのは、それから半年ほど経ったとき。そこでも息子の発達を指摘された。発達の遅れは充分な睡眠がないからで、眠れるようになったら普通の子に追いつくのではないかと食い下がってみたが、そういうことではないことを医師はわたしの目を正面から捉え話しだした。

「睡眠障害は発達障害と深く関わっていることがある」

医師はそのあとも何か喋っていたと思うが、わたしは不意に頭上から落下してきたドリフでしか見ることがないような大きな銀のタライをまともに食らって放心していた。辺りが黒く塗りつぶされていく。目の前の医師も見えなくなった。どのくらい時間が過ぎたのか、それは一瞬のことだったのか。色が戻ってきたとき、医師は不安そうにわたしの顔を覗いていた。療育が始まったのはそれから。

言葉を発しなかった息子が言語療法に一年間通った成果は、「抱っこ」だった。3歳になった息子は抱っこしてほしいと訴える言葉を習得した。それだけ。

なんだ、それ

こんなの成長ゆえのことで、何もしなくても「抱っこ」くらい発したんじゃないか。わざわざ高速に乗ってあんなに遠くまで通う必要があったのか。

息子とは目が合わなかったがそれはもうずっと続いていた。名前を呼んでも振り向かないし、微笑むこともなかった。いつもわたしに背を向けて一人遊びに夢中になって、お腹がすいたときにだけ飯をくれと言わんばかりに大声で喚いた。それ以外には用がないから俺の領域に入ってくるなよ、息子の背中はそう言っているようだった。

それでも負けじと息子の視界に入り込んでは「すごいね」とか「出来たね」とか、声をかけてもいたんだけど反応などあるわけもなく、むしろ鬱陶しいと思われていたんじゃないか。わたしが近づくと別の場所に移動して、またさっきと同じようにこちらに背を向けた。

なんのために息子を育てているのか分からなくなった。この先息子が社会で生きていけるとはとても思えなかったし、睡眠障害が治りそうにもなかった。何より育児をしているという手応えが全くなかった。

「もういいんじゃないかな」

療育センターの駐車場で夫に言った。

「練炭でも積んでくれば良かったね」

夫はわたしの言葉にひどく疲れた様子で、いつも一緒に戦ってくれていた大切な人をわたしは欺いた。

みんなでここで死ぬのがいい

あのときはそれが一番いいと思った。


親が障害のある子を育てるとき、絶望感に苛まれて我が子に手をかけることがある。それはもちろん罪なので、許されることではない。だけど。その人は恐らくそこまで追い詰められる苦悩があったはずで、ぎりぎりのところでも救ってくれる人がいなかった人。全部一人で背負うしかなかったんだろう、その人。疲弊して助けさえ求めることができなかったその人に、差し込む光はなかったのかもしれない。子を生かしておくことへの不安、親として見てもらえない虚無感はこれまでの自分の姿に重なって見えた。

他人事には思えなかった。一線を越えたその人は、あの日のわたしだったのかもしれない。救えなかったのは子供であり、その人でもある。

他人事には思えなかった。

あの一線を越えた、その人を。



スキしてもらえると嬉しくてスキップする人です。サポートしてもいいかなと思ってくれたら有頂天になります。励みになります。ありがとうございます!