田口ランディ著「水俣 天地への祈り」読みました

久しぶり。
先日、ランディさんの「水俣 天地への祈り」を読んだ。その中に出てくる杉本栄子さんと緒方正人さんのインタビューがあまりにもすごかったので、緒方正人さんの「チッソは私であった」をKindleで入手した。

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次の日あたりにお寺に行ってノリさん(パロロ本願寺住職)に「ランディさんの水俣、すごかったよ。特に緒方正人さんと、杉本栄子さんのインタビュー」と話したら、「本、あるよ」と出してきてくれたのが「チッソは私である」と「常世の舟を漕ぎ出でて」だった。

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うちでの小槌なのだろうか、ここのお寺は! 「これ、面白かった!」と言うと、関連書籍が「ほい」と出てくる。この間はシャンティディーバの本だった。(こちらもとても面白かったのだが、第9章の「智慧」が、全く理解不明で、誰か解説してくれないだろうか)

神妙な気分とワクワク気分とが交錯しつつ「常世の舟を漕ぎ出でて」を読み始める。「え、この方はジョアンナ・メイシーを知ってるの?」と思うほど、彼のたどり着いたところとジョアンナのワークや思想には共通性がある。

WHOの健康の定義に盛り込まれそうになって盛り込まれなかった「健全なスピリチュアリティ」ということが仲間と話題になったのだが、私の中で「スピリチュアリティ」的な側にも、関心が広がりつつあるのかも知れない。思えばお寺に通ったり、お坊さんの書いたものを読んでみたりしているのだから、そっち方面なのだろうと思う。ただ、スピ系と呼ばれてしまったりする、あまりにも玉石混交で幅が広すぎる分野と関わることになりそうで、「スピリチュアルな世界へ関心がある」とは言いにくいなぁとも思っているのだが。でも、きっとスピリチュアリティについて真面目に語りたい人は周りに増えている感じがする。年齢的なものもあるのか、お寺はそういう場でもある。
まあ、それはさておき。

緒方正人氏は水俣湾に面する女島という半島の網元に生まれ、父親を水俣病で亡くす。チッソとの時に暴力的になるやりとりをも続けながら、74年に水俣病の認定申請をするが、85年には申請を取り下げる。チッソという会社や政府などの「システム」自体は、何も受け止められないものになっていることに気づくからだ。どこまで行っても「システム」の実態は見えない。訴えを受け止めるところは無いのだ。

「訴えるものと訴えられるもの」や、「被害者と加害者」という関係性や訴訟が終わった途端に、何もなかったかのように終わりになってしまう。補償があったとしても、水俣の水銀が消えるわけでも、病の苦しみが終了したわけでもないのに。

ジョアンナのワークには、さまざまな立場の人の役割を取って語ってみたり、敵対する相手への愛を送ってみるといった内容がある。全てのものがつながっている、という仏教的な視点のもとに、ある出来事に自分自身が加担していないことはない、というスタンスを取る。もしかしたら、相手と自分の立場は逆だったかもしれない、という視点を忘れない。

緒方正人氏が「チッソは私であった」と言うとき、地球に負担をかけるものとしての自分の中にチッソとの相似形を見出す。周りとのつながりなくして、自分の存在はないよね、というところなど、まるでインドラの網のエピソードではないか。そして、助けずにはいられない、利他という菩薩の宿業についても連想してしまう。

100%正しい人とか、100%の悪人もいなくて、マダラにいいところとダメなところ、正義を貫くところ、狡いところがあるっていうのが人間だ。被害者としてだけの自分があるわけではなく、罪人としてだけの自分があるわけではない。日々、起きたり寝たり、食べたり飲んだり、仕事したり遊んだりしてる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

そんなこと思っていたら、毎日新聞の記事に今、とっても注目されている「人新世の資本論」の著者、斎藤幸平氏と緒方正人氏の対談があった。思わず、購入契約して読んでしまった。

「部屋の中で、カウンセラーとクライエント」という間柄から、もうちょっと世の中的なことに関わりたくなっている。コモンとしてのお寺とか、ハワイの日系社会にとってお寺が果たしている役割とか。

私の中の暴力性に気づきつつ、絶望するでもなく、無理矢理ポジティブになるでもなく、お寺のお掃除などしながら、自分には何が出来るかなぁ、まだ、出来ることがありそうだがなぁと思いながら過ごしている。


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