見出し画像

EGOIST

※始めに。ネタバレの可能性もある内容となっています。まだ映画を観ていない方や内容を知りたくない方はご遠慮下さい。

…喉から手が出る程に、心の奥底から欲しいモノに出逢ってしまったら、人はどうするだろう。

観終わった後も、自分の感情とリンクする部分が多くあった。それは私が性的マイノリティーだから、それだけではないと思う。

人が人に出逢い、感情を揺さぶられ、どうしようもなくなり恋に堕ちていく。そしてその道すがら、日常はお構いなしに過ぎて行く。

人といても孤独を拭いきれず、その自分の感情に渦巻かれながらもどこか理性という名の元にやり過ごして…
日常を送る他ない。

鈴木亮平さん演じる浩輔が、宮沢氷魚さん演じる龍太と躰を重ねる仲になろうとも、なんかこう…ぎこちない余所余所しさで始終いたことにも胸を締め付けられた。

理性を保っていなければならないとか、欲に任せてはいけないとか、自分を押しつけてはいけないとか…目の前に現れた喉から手が出る程に欲しいモノは、人の形をしている、だから。

原作者の高山真さんの書かれた、浩輔の人生を思った。きっと浩輔を通して透けて見えるある人の、その人の人生。

映画始まって直ぐの、浩輔のベージュのコートを着た後ろ姿とエゴイストのタイトル。そのシーン、一瞬で揺さぶられてしまった。

物凄い喪失感と哀しみ。

当然、人として生きる上であるべきものなんて何も望まず、鎧を着て独り生きていただけなのに。ほんの少し、喉から出た手に届きそうなそれを。それさえも欲しがってはならないのかと思うまでに、こんなにも空っぽの自分、始めから何も持ってはいない自分から奪われ逝ってしまったモノ。

それは、愛かエゴか。

浩輔と龍太の出逢い、龍太に強く惹かれ堕ちていくのは、龍太本人の手招きによるものだとわかりながらも。
友人との談笑中も決して悟られない様に。「そんなんじゃないのよ。ピュアなんだからあの子。」正確ではないかもしれないけど、そんなセリフがあった。寿司屋のメニューを見て来たり、あれこれ上げたらキリがないほどのあざとさ。
でもそれは、浩輔がブランド品を身に着けマンションの最上階ペントハウスに住んでいる鎧そのものと、何ら変わらない龍太の鎧なんだと思った。

生きていく為に身に着けた鎧。

どれだけの刹那な事か計り知れない。

浩輔の鎧はハイブランド品を頭のてっぺんから足のつま先まで完璧に着こなす事にあるが、これは性的マジョリティのそれではない。よく同じ様な言い回しで、ブランドは鎧だなんて言ってる輩のそれでもない。

ここが本当に本当に本当に本当に本当に…多数の人間にわかるのかよ、と思ってしまう。

千葉の田舎と言っていた、あの風景はあの漁師町だろうかと思いながら。ブランドに身を固め、身内からも他人からも無差別に浴びせられる差別と偏見とマイクロアグレッション。その攻撃から身を守るため、人を避け、人から避けられる様に生きる。

その為の、鎧。

武器など持ち合わせてもいないし、攻撃などするつもりもない。関わってくれるなという1言である。

虚勢でもない、誇示でもない、自慢でもない、そんな訳がない。温かくなんてないし、自分を、自分の傷を包む包帯でもない。

硬く冷たい鎧のなかには虚影と哀しみしかない。

きっと、仕掛けた方も仕掛けられた方も絡まりながら堕ちて行った。その果てで、仕掛けた筈なのに。
それなのに…心、裸にされてしまった龍太。

「浩輔さんに逢うまではちゃんと出来てたんだよ!」と言ったのは、セックスワークの事でもないし、出会系の事でもない。鎧を着て居られた、鎧を着て生きて来られたというその事だと思った。

浩輔さんだって、その他大勢の1人に過ぎなかったんだという心の深い深い暗い暗い奥の底の、そこから絞り出される叫びだった。その叫び声は吐き出した龍太自身が1番最初に聞くこととなり、それにより重く硬い鎧を脱いでしまう。

自宅に浩輔を招き、お母さんに会わせたのも鎧を脱いだからに違いない。自分の全てを受け入れてくれる期待をし、期待を抱かせた浩輔は自分の知る鎧ではない種類の鎧の存在をまざまざと見せられ、どんなものか知る由もないまま、また堕ちていく。

信頼とは、愛かエゴか。

きっと、龍太が着ていた鎧は「月に10万」などでは無かっただろう。自分のおいたち、母との生活、社会からの差別…

こうして物語の主人公に代わり、いま思う。…相手に鎧を脱がれてしまったそのことが愛であれエゴであれ、
すべきは全部捨てて、鎧も実家も何もかも捨てて相手だけに飛び込む事が出来なかったんだという自分はエゴイストだったのだと。私の解釈に過ぎないが、そういう事だと思う。

丸裸になんてなれるわけがないと、そうだと思うならば。他人の思う言葉や想像なんてクソだ。本人が捨てられ無ければ、それはエゴだとしか自分でも言いようが無いだろう。

取捨選択なのではない、自分の殻を破れなければ真実には近づく事なんて出来ないという事実なだけである。

性的マジョリティの日常にありふれている、恋愛や結婚指輪や婚姻届の紙1枚でさえも愛を具現化する、そんなものも形も無ければ、一体どうやって相手を繋ぎ止めていられるだろうか。

浩輔が龍太に渡す10万は、繋ぎとめる唯一のツールに過ぎなかったんだろう。

マジョリティのそれとは違う。

母子そこに身を委ねるには、軽く薄い。

もう全部がずっと哀しい。

話の途中で、浩輔が浮かれた柄のボアコートを羽織り洋服ブラシをマイクにちあきなおみの「夜へ急ぐ人」を1人熱唱するシーンがある。

(先月、飲みに誘って下さった方に言われたのをいまこれを書きながら思い出した。ちあきなおみの夜ヘ急ぐ人って曲、歌ってよ。そう言ってました、なんのデジャヴュよ。)

性別とか、なんかそういうのとか関係ないよ。最後は人としてどうあるべきかでしょう。そういう人も居るだろう。全員が不幸なわけでもないし、居ないことにされていても居るしと風切る人も居るだろう。

そうやって言い切れない、人の内側を今回この映画を通して見せつけられてしまった。

ここまで書いても、まだ私の中でまとまっていない事は読んで下さった方に伝わるだろうし、まとまることは今後無いだろうな。辛すぎて、ひとつひとつのシーンを思い出しては、心の奥の深い静かな縁へと連れて行ってくれる…そんな素晴らしい作品だったという感想で一旦終わります。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?