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システムエンジニアになるまでの自分語り

nullです。女です。東京でSESやってます。

こちらの記事を言い訳にして、私もエンジニアになるまでの生涯を書いてみようと思いました。

書いたところで参考になるような内容でもない特殊な事例ですが、自分語り大好き人間なので、書きます。知人が読めば個人特定できるレベルの内容になってしまった……HAHAHA!まいっか!

凄いエンジニアじゃないです。本当に、しがないSESの端くれです。あ、「SESはクソ!」みたいな話は他所でお願いします。今回もそういう話じゃないので……

退職エントリと言い、流行りものがお好きですねぇ私は。

誕生~転居

父と母と、いくつか上の兄が1人居る家庭に、私は生まれました。母方の親戚と仲が良く、とてもかわいがって頂いてすくすくと育ちました。首都圏で暮らしていて、跳びぬけて貧しくもないけど、周囲に比べたら裕福でもない、そんな家でした。

当時暮らしていた3DKのアパートには、いつも薄暗い部屋がありました。スチールラックと、なんだかよく分からない雑誌の山。そこに白とベージュの間のような色をしたブラウン管の機械が置かれていました。そう、コンピューターです。以前両親から話を聞いて計算した結果、私は3歳からコンピューターに触れていたことになりました。……といっても、ぷよぷよで骨のキャラクターにぼろ負けしていた記憶しかないので、私にとってはゲーム機の1つという扱いでした。

あの頃、一般家庭にコンピューターがあるなんて相当珍しいと思いますし、結構な高級品だと思うんですけど、どうしてか、父親は別にコンピューターを使う仕事ではなかったんです。恐らく趣味で持ってた。この辺、本人からちゃんと聞いたことは無いので、コロナ禍落ち着いたら聞いてみようかな。Windowsは入ってた気がします。多分Windows 3.1かな。

そして、私がまだ幼稚園児のうちに、介護の都合で、田舎にある祖父母の実家へ引っ越すことになります。

小学生時代

父親はどこから持ってくるのかノートパソコンを手に入れてました。いや買ってるんでしょうけど。引っ越してきたときにはアパートにあったデスクトップPCは段ボール箱から取り出されず、父親が黒いノートパソコン(A)を使っていたと思います。これもWindows3.1。

父親は次々にノートパソコンを買ってきました。次に買ってきたのは灰色のノート(B)。これがWindows95、次がまた別の黒いノート(C)。これがWindows98。最後に薄型の灰色のノート(D)がWindows2000。やっぱりそのお金どこから出てきたんだよ父さん……

父親が新しいPCを買う度に、私と兄は古いPCをおさがりで貰ってました。黒いノート(A)でPCゲーム2000みたいなディスク付き雑誌のゲームを遊んでいました。「ぷるんぱ きせかえワン・ツー・チェンジ!」とか、あとは、「TAKE A TRAIN」というシェアウェアのゲームの試用版で延々と遊んでいた覚えがあります。お金払えよ……

灰色のノート(B)も二人で使っていて、この頃NTTのダイアルアップ回線が自宅に通りました。インターネットでポケモンの個人サイトを見ていた覚えがあります。WWAにもはまってた時期かな。自分たちでも作ってた覚えがあります。

その後父親が新しいPCを買う度にお下がりが来て、黒いノート(C)が兄用、灰色のノート(D)が父親用となり、1人1台ノートPCを持つようになりました。OSも、そのPCのスペックでギリギリ動くものまで上げてましたので、最終的には(B)(C)がWindows2000、(D)がWindowsXPだったように思います。家の回線もダイアルアップからCATVの回線に、最終的には無線ルーターも設置されました。私はWindows2000のノートパソコンを大事に大事に使いました。それが小学校3年くらいの頃の我が家のPC事情です。

その頃には、自分でもメールアドレスを持って個人サイトを作ったり、CGIでできたFFAってゲームで遊んだり……あ、ネットゲームもしていました。ただ、我が家のPCのスペック格差が酷く、兄は自分のPCでラグナロクオンラインとかやってるんですが私のPCでは無理。ギリギリ動いたゲームがExorcism Breathe。このゲーム相当やってました。(TMSさんのサイトは無くなってしまったので、窓の杜の記事。)

でも周りがどんどんとゲームを始めるので、父親にお願いして、父親が使っていない時間は父親のPCを使わせてもらってました。RED STONEや、ギリギリ動いたメイプルストーリーをやっていたと思います。RED STONEは中学までやってました。どちらも今も稼働してるんですね。長寿だなあ。

家には任天堂のゲーム機が多くありました。ゲームボーイ(初代弁当箱!)、ポケット、カラー、アドバンス、アドバンスSP、DS。それぞれ兄と共有で(DSだけ最終的に2台)。兄は64とNGCも持ってました。ポケモンのピカチュウ・銀・サファイアが一番やったかな……とはいえ四天王クリアしてからもやったのはサファイアぐらい。コンシューマーゲームが全然続かない人間で。

……なんかゲーム紹介記事っぽくなってるな……

まあ、自分の生活には必ずパソコンがあった感じです。FLASH黄金期にラサイトや砂糖水やなんやらをずっとウォッチしてたり、FLASH紅白歌合戦チェックしてたり、ポストペットモモ買ってもらったり、お絵描きBBSに絵をかいたり、チャットがリロード式からリアルタイム反映になったり、兄と私のIPが同じだから同一人物だって言われたり、自分のなりすましが荒らしをして個人サイトから締め出されたり。そういう生活でした。自分の個人サイトにHarbot置いたりね。

中学~高校生時代

部活の始まりと共に、パソコン漬けの生活からは少し離れました。兄の将来の夢がゲームプログラマーで、私も何となくそういう、パソコン使った仕事したいなと思ったり思わなかったりしていたころです。

ちなみに中学の時はぱどタウン、高校ではハンゲームをやってた気がする。そういうのがあったから、個人サイトも不要になって畳んだように思います。あ、ただ部活のみんなとケータイサイト立ち上げるの流行ってた気がする。ブログとかリアル(Twitterのような短文投稿機能)とか書きすぎでドン引きされていたの覚えてます。あとはmixiを始めたころな気がする。

兄は情報科のある高校へ進み、私は「ライトノベル作家になりたいです!」と面接で言って推薦で高校に行ったりしました(パソコン使った仕事ではあるか?)。でも高校で「ホントになれると思ってんの?」って友人に真顔で聞かれたときに諦めました。ちなみに高校入試の時に使うからという理由で中3の時に18万くらいのノートPCを買ってもらいました。電気屋の店頭に並んでたFMVだったかな。ここでやっとWindowsXP。 ……やっぱり裕福なんだよ絶対。おかしいもんこんなにぽんぽんノートPC出てくるの……

高校は部活動が相当忙しく、3年間のうちのほとんどは部活動でした。ただ、選択授業の中に商業があり、高校2年の時に全商の電卓・ビジネス文書・情報処理検定を取り、高校3年でITパスポートと情報処理技術者試験を取りました。授業の時間がそのまま資格勉強の時間だったので。

進路はもう情報系ならパソコン使えるだろうという理由で、実家から通える範囲の学校を探して偏差値が高いほうから受けてました。センター試験の数学②はもちろん情報関係基礎。

結果的に大学の経済学部に進みました。理由は「ゼミに1つだけ情報系のゼミがあること」だったんですが、私が入学した年に、教授が定年でそのゼミが無くなりました。

大学時代

大学に入ってからは、サークルでホームページ担当になってHP作ったり、友人と通話しながら徹夜でネットゲームしたりしてました。学生生活の中では、できる限りパソコン使えそうな講義を選んだり、経済学部なのになぜかJavaでプログラム書いてるゼミを何とか探して入ったりして、とにかくパソコンが使える環境に自分を置くことをメインにしていたように思います。

……ちなみにそのゼミも教授が定年で私の代が最後になりました。スクリーンに映ってるプログラムを転記するだけのゼミだったけど、最終的には教授がアルバイトとして雇ってくれたり、随分と良くしてもらいました。定年最後の授業では花束渡す役になって、ちょっとウルっとしたんですけど、翌年も非常勤だと決まってるって後で聞いて笑っちゃいました。

大学1年の冬に、当時使っていたPCのアダプタが火花を出して壊れ、バイト代を全投入して急遽新しいノートPCを買いました。何でか忘れたけどVAIO。中身は当時出たてくらいのWindows7。大学でPC買わされたみんなはVistaだった気がするんだよな……

就職先を考える頃には、兄はゲーム会社で働いていました。夢を叶えてる兄すげえ。尊敬。就職先の相談すると「お前にゲーム会社はオススメしない」の一点張り。まあ大学4年間目的も無く過ごしていたので特に作品も無いし、今から作る気力も無いしで、そういうものが求められる会社は全部避けました。

結局、大きな夢も無く就活をしていました。方針と言えば「実家からそう遠くなくて」「パソコンを使う仕事」くらいでした。ま、私が就活する頃には、大体の会社でパソコンは使われてました。学内企業説明会で、気になった会社の話を聞いてたら、気が付いたらシステムエンジニアになっていた感じです。

新卒時代

両手で数えられるかどうかくらいの同期と共に入社。男女比4:6くらい。女性向けの福利厚生がしっかりした会社だった印象があり、この会社を受けました。あとは、社長と役員の目の隈がヤバい会社私の名前を間違えた会社しか受けてなかったので、ここに受かって幸運だったと思います。本社が実家から離れていたので、私はここで初めての一人暮らしをしました。

割と気の合う仲間たちと新卒の研修をこなし、各現場へ。私の配属先は実家から車で1時間ほどだったので、また実家暮らしに戻りました。後にも先にも、一人暮らしをしたのはこの研修時代の数か月間だけでした。

配属後も一人暮らしを勧められたりしましたが、高齢の祖母が居たので、祖母が元気な家は孫として孝行しようと思い、結局実家で暮らしていました。その祖母は今でも元気です。田舎のおばあちゃん、すごい元気ね……嬉しい。

どうも研修の成績が良かったらしく、割と早い段階から開発に参加させてもらいました。Webアプリのバックエンド開発で、JavaとS2Daoだったと思います。SQLなんかも読んだり書いたりしましたが、今でもSQLはちょっと苦手ですね。あとは、丁度Gitが盛り上がっていた時期だったので、Gitの教育資料つくったり、現場にGit導入したり、そんな仕事もさせてもらいました。

私という人間は、仕事の時間以外に仕事のことをしたく無い人間だったので、家で勉強をしない、所謂職業プログラマーになりました。何度も「この先生きのこれない」と言われましたけど、今もしぶとくシステムエンジニアしてます。エンジニアとして生きてるかは別として

そういえばいつごろかWin10の無償アプデが来て、つかってたVAIOもスペック的にギリ行けそうだからアプデしたら全然使い物にならなくて、仕方なくダウングレードしたらOSぶっ壊れて起動しなくなったので、新しいPCを買いました。私は本当にシステムエンジニアなのか???

買ったのはmouseの大きめのノート。スペック積めるだけ積んだんだけど、たいして使わないまま時代に取り残されてしまいました。今もそれで書いてます。ちなみにVAIOは数年後にUSBでLinux起動してデータだけ退避しました。当時教えてくれた先輩、ありがとう。

暫くして、私に仕事上の転機が来ました。上の先輩たちが他の仕事で手一杯で、若手から1名上流工程に出すことになりました。色々あって私になりました。結果、ソースコードをまともに書く機会が激減し、朝から晩まで会議して、合間に会議結果を現場に共有して、現場の工程管理して、ExcelとPowerPointに「アプリ画面のスクショをペイントで加工したもの」を貼り付けて仕様を握るような仕事を2年くらいしてました。でも楽しいこともあるし、やりがいもある仕事でした。いろんなところから褒めてもらえたし。

ただ、上からも現場からも色々言われて疲れてしまい、私は「この仕事が自分の給与に見合ってるか」を思い悩み始めました。正直言ってうちの会社のリーダー層がやる仕事を「平の若手」がやっている状況だったので、お金と見合ってないって気づいてしまった。そして、この仕事したからって、特別昇給もしない。気づいて、しまった……

退職と上京。そしてSESへ……

その頃、人生上の転機が訪れます。遠距離でお付き合いしていた相手と次のステージに進む話が上がり、友人の後押しもあって、あれよあれよという間に退職して上京することになりました。

おばあちゃん生きてるうちは実家で暮らす!って言ってたんですが、おばあちゃんの健康寿命が、私の結婚適齢期を上回りました。おばあちゃんすごいぞ。そのまま元気でいて。

退職関連は退職エントリに詳しく書いてありますので省略。この前有料にしちゃったけど。

SESにした理由の部分だけ引用します。

「私は社員じゃないし」「私はあの人たちより安く働いているし」と言い聞かせてる部分もあります。

SESでいる限り、前みたいに自分が最上流を握る責任を負うことが無いと思ってる節はあります。あとは今は若干腰かけでもありますね。ずっと東京にいられるとも限らないので。

今でも個人開発もしてなければ、書籍も読んでないです。業務に必要な知識は業務時間に仕入れてます。だから、私がシステムエンジニアかって言われると、正直どうかな?って感じですね。なのでイベントとかも参加できないんです。何も話せないし、何聞いても自分が何もしていないことに負い目を感じるだけの時間になってしまうから。

だからこそ、ちゃんとプライベートでそういったことしてる方々は尊敬しています。

今の現場でも割と重宝してもらっていて、アタリ人材扱いを受けてはいます。それくらいでチヤホヤされるのが私にはちょうどいいのかもしれませんね。フォロワーシップで感謝される立場に延々といられる分、給与は低い、と。

結婚……していない

多分これ前の上司に言ったらほんとにびっくりされると思うんですけど、まだ結婚してないです(上司には「結婚するので」って言って退職した)。そもそも二人ともマイペースで話の進みが遅く、コロナ禍もあって足踏みが続いています。でも別に結婚したところで今の生活は特段変わらないと思ってるので、急いでもいないです。まあ綺麗なうちにドレスは着たいですけど。あ、アラサーです。

就活時も転職時も出産後の復帰ができるかで会社を選んでいたんですが、どうも今の会社は入社前に聞いた話と事実が異なる点があるようなので、この会社で続けるのは厳しいかもなとは思ってます。そもそも女性エンジニアが数えるほどしかいなかったので、実例が無いっぽいです。あるっていったじゃん

今後

父親譲りの楽観視を発揮している私は、「まあ、なんとかなる」という精神で生きてます。ただ、たまに母親譲りの繊細さが出てきて「本当にこれでいいのか」と不安になることもあります。そんな時に話を聞いてくれる友人や先輩、パートナーを大事にして、これからも何とか生きていけたらと思います。

お金は欲しいですけど、年収を上げてバリバリ働きたいという気持ちは無く、今くらいの働き方で年収だけ上がってほしいという怠惰な精神で生きています。そういうエンジニアもいるっていう、そんな話でした。

おわりに

わー!6500文字も書いてるー!

構成は元記事様に寄せてみましたが、元記事に比べて無用な自分語りが多すぎ……まいっか……

これが万一捕捉されて一覧に載ったとしても、何の為にもならんこの自分語りがここまで読まれることは無いだろうと思った私であった……

あーあ、5000兆円非課税で手に入って一生遊んで暮らせないかなぁ~!


追記:noteへのリンクは通知が飛ぶのですね!読んでいただきありがとうございました!

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