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日本語から日本語への翻訳(その2)紙文『魚のいらない水槽』

シリーズ日本語から日本語への翻訳、通称JtoJの2作品目は紙文さんの『魚のいらない水槽』を選ばせていただきました。
(前回のオカワダアキナ『さなぎ』のJtoJはこちら

翻訳させてもらおうという段階で、紙文さんは自身のnoteのリンクを教えてくれて「このなかから好きなものを選んで下さい」と言ってくれました。

ひととおり読んだなかで今回『魚のいらない水槽』を選んだ理由は以下の通りです。
・短すぎない(短すぎると翻訳前後の比較が難しいため)
・意味にあそびがある

前回のオカワダさん作品の翻訳も読んでいただき、こんな感じで公開する予定ですが大丈夫ですか?と確認したところ「自分のはもっとやっちゃってくれやで!(大意)」との言葉をいただいたので、今回は前回よりも制約を緩くしました。紙文さん、ありがとうございます!

前回との違いは3点、
1.文章のパラグラフの配置を大きく変えたこと
2.元の文章にない文章を足したこと
3.元の文章にある文章を削ったこと
ただ、小説の持つ意味は変えないようにしたつもりです。

オカワダさんは様々な情報を配置して有機的に繋げることや、会話の妙をはじめとする人物造形、意識の回り道みたいなことをして小説世界のリアリティを出すことを感じたのに対して、紙文さんは真逆に近く、余計な情報は排除し、それによって一文の意味を研ぎ澄ませるとか、あえて文章の一部を剥ぐことで『梅雨が終わると試験の季節。』というように小説の空気を作るタイプかなと思いました。

紙文『魚のいらない水槽』原文

そんな感じで、原文と翻訳文の違いを楽しんでもらえると嬉しいです。

魚のいらない水槽(原文:紙文、訳:伊藤なむあひ)

 からだの半分は水でできている。そう聞いたとき、とても納得したと同時にそれなら仕方ないか、という気持ちになったのをよく覚えている。
 さすがに二日連続でずる休みはできず、仕方なく登校することにした。窓の外の空はずっと灰色で、わたしはそれをぼんやりと眺め続けていた。雨が降ってくれれば部活は休みになる。そうすれば聡くんと顔を合わせずに済む。だけど、放課後になっても雨は降らず、代わりに唾に見舞われた。
 わたしが校庭のどこにいようと、細いのに、決して切れることのない視線が唾のように追ってきた。校庭が夕暮れに沈むまでずっと、わたしはそれから逃げようと足を動かし続けた。頭に浮かぶのは魚のこと。わたしのからだのなかを泳ぎ続ける魚のこと。魚にとって、わたしの身体は水槽みたいなものなのだろう。
 物心ついたときにはもうわたしのからだのなかに魚はいた。なんていう種類なのかもわからない。ひとのからだに棲みつくなんてめずらしいのに、わたし以外の人からこの魚についての話を聞いたことがない。あるいは知っているのに口にしないだけかもしれないけれど、わたし以外の人のことはわからない。
 足は勝手に動く。魚が嗤う。いい加減、聡君がかわいそうに思えてきたぜ。そうだね。あいつが告白してきたの、もうひと月も前だろ?うん。魚が黙る。わたしの言葉を促しているのだ。魚のくせに。でも。でも?もし告白を受けたら、そのあとはどうなるんだろう、って。手をつなぐ、キスをする、それから、そういうことも、するのかなとか考えてさ。怖いのか?どうだろう、怖くは、わかんない。ねえ、嫌いじゃなくても、断っていいのかな。魚が嗤う。俺が助けてやろうか?魚には理解できないのだ。わたしが何に悩んでいるのかなんて。
 部活が終わって服を着替えたところでようやく雨が降り始めた。いまさらだよと思いつつ、ため息交じりに鞄から折りたたみ傘を取り出す。広げながら下駄箱を通りすぎるとき、聡くんがわたしのすぐそばに飛び込んできた。
「わりい、傘入れてくんない?」
 言いながら、聡くんはすでにわたしの傘に入っていた。
「家の方向、違うよね」
「駅まででいいからさ」
 断り切れず、結局ふたりで帰ることになった。いつもよりも道幅が狭い。水たまりをまたぐと、魚の気配がした。わたしは黙り、聡くんは喋っている。
「そうだこの前さ、」
 電信柱を避ける。
「先週なんてさ、」
 車とすれ違う。
「それでさ」
 と聡くんが言った瞬間、二の腕が触れあった。
「そもそも」傘の柄を握るわたしの手が、
「それでね」全身が、
「ええと」こわばる。
「だからさー」聡くんは「ねえ」ずっと「いい加減さ」喋り続けている。
「返事してよ」
「え?」
「だからさ、俺告白したよね?」
 足がすくむ。聡くんにつられて、わたしまで立ち止まってしまう。横断歩道の手前。信号の点滅とわたしの鼓動。雨粒が激しく傘を叩く。柄をつかまれていた。
 すぐ近くに聡くんの顔がある。聡くんの目が、わたしを、わたしだけを見ていた。
「あのさ、キスしていい?」
 魚が言った。
「いいよ」

 梅雨が終わり、試験の季節となった。放課後の部活動が休みになったことに、わたしは少しだけほっとしていた。あの日から、わたしはますます聡くんを避けるようになっていた。そんなわたしに気が付いたのだろう。親友の小鹿が声を掛けてきた。
「ちょっといいかな」
 そう言って小鹿は缶ジュースを差し出してくれる。わたしが受け取るのを見ると、彼女が隣に腰を下ろした。中庭にはわたしたちしかいない。小鹿が先にプルタブをあけた。
「あのさ、最近聡となにかあった?」
 わたしは答えない。魚の気配がした。
「聡、言ってたんだ。おれ、もしかして避けられてるかもって」
 わたしはわずかに顔を背け、手元のプルタブをゆっくりと引いていく。
「喧嘩でもしたの?」
「小鹿はさ、聡くんのこと好き?」
 それはほとんど同時だった。小鹿が目を丸くする。そして一度、空を仰いでから「いきなりどうしたの?」とおどけたように言った。わたしは小鹿の目を見る。まっすぐに、小鹿だけを。
「見てればわかるよ」
 小鹿が唾を飲み込むのがわかった。
「告白とかはしないの?」
 小鹿は思い出したみたいに缶を一気にあおる。そして、そっぽを向いて唇をとがらせた。
「聡はほら、幼馴染だし」
 そう、幼馴染。だからだろうか、ふたりの喋り方は、仕草はよく似ている。小鹿が、聡くんがよく困ったときに首をさわる。いまみたいに。
「私は、いまのままで充分っていうか、」
 かわいそうな小鹿。こんなに聡くんのことが好きなのに、その聡くんは。
 いつだってそうだ、わたしたちは相手の横顔ばかりを眺めている。まるで循環する三角形のように。だけど、それも今日までだ。
「聡くんにキスされたの。無理やり」
 空っぽの缶が音をたてて足もとを転がっていく。小鹿が、おそるおそる繰り返す。
「無理やりって、あいつが?」
 わたしは小さく頷いた。それ以上、なにも言わない。もう擬態はおしまいだ。三角形は限界で、こうするしかなかったのだ。小鹿のしなやかな腕がわたしのからだを包み込む。魚とは別の生き物が、初めて息をする。

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