映画『トムボーイ』のふたつのクローゼット——クィアネスと枠組みの葛藤

 新宿シネマカリテでセリーヌ・シアマ『トムボーイ』を観た。こういうのはダサいかダサくないかで言えばダサいのだけれど、これは半分くらい自分の映画だ、と思った。そういう映画は「ある」のだ。キム・ボラ『はちどり』もそういう映画だった。

 自分の映画だと思った作品なので個人的な話も挟まってくるのだけれど、以下、ネタバレを含む作品の話を。

 ひとまず、公式サイトよりあらすじを引く。(スクリーンショットで失礼)

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 短髪にタンクトップとショートパンツという〈少年〉のような出で立ちのロール=ミカエルは、リザを初めとする友人たちには自らを〈少年〉だと思わせ、家族の前では〈少女〉として振舞っている。家の外では子宮を持つ身体であることが、家の中では〈少年〉として振舞っていることが、それぞれクローゼットの中にあるのだ。家族にも友人たちにも、自らを「普通」だと見せたいのだとも言える。ロール=ミカエルにとって、それが自分自身を守りつつ、自分が自分である領域を守る手段なのだ。

 では、ロール=ミカエルはみずからを〈少年〉と〈少女〉のどちらに位置づけているのだろうか。

 鏡を前に自らの身体を顔をしかめながら見ていたり、リザに施された化粧を快くは思っていない様子であることから、〈少女〉のジェンダーロールを引き受けることが本人にとって「違う」のは明らかだろう。

 ロール=ミカエルは家の外では〈少年〉として振る舞いつつ、少年ではないと露呈することを恐れている。また、ミカエルがリザに好意を寄せられていることにも戸惑いを見せているなど、ロール=ミカエルが自らを〈少年〉として位置づけているかどうかは明らかではない。しかし、前述のようにロール=ミカエルが〈少女〉の役割を否定していることは確かである。

 『トムボーイ』におけるロール=ミカエルの振る舞いは単なるジェンダーのゆらぎではなく、敢えて言葉にするならばジェンダーフルイドというクィア、自らの身に沿うジェンダーアイデンティティを実現しようとする葛藤のひとつなのではないだろうか。(「ゆらぎ」という表現は本人にとっては深刻な流動性を一過性のものとして矮小化してしまいうるのでここでは避ける)

 しかし、夏休みの終わりにともなって、ロール=ミカエルに〈少女〉の役割が迫ってくる。転校先の名簿にミカエルの名前がないと指摘されることはロール→ミカエルの綻びのひとつだ。そして、ある出来事を契機としてミカエルが少女であること、ロールがミカエルであったことが白日のもとに晒されていくのだが、その際ロール=ミカエルが無理やりワンピースを着せられるシーンは痛ましい。これはロール=ミカエルは二つのクローゼットの外に強制的に放り出されたシーンでもあるからだ。

 〈少年〉のふりをしていた〈少女〉に仲間たちの風当たりは厳しい。ロール=ミカエルは少女であることを身体を調べて確かめようとされるうえ、ロール=ミカエルに好意を寄せていたリザにすら手のひらを返されるのだった。

 家族や学校という枠組みや制度のなかで、ジェンダー規範からの逸脱や移行は困難であり、ときに許されないことですらある。生来〈少女〉として扱われるのを快く思わず、〈少年〉がするような遊びを好んできた人間として、男/女のバイナリーな性/別に馴染めなかった人間として、あるいは大学入学以降〈女の子〉として徴づけられ対象化され〈女の子〉でなければ貶められるような環境に身を置く人間として、わたしは半分ぐらいはロール=ミカエルだった。〈少年〉のような振る舞いこそしなかったが、〈少女〉を求められることがなにより苦痛だった。

 そのなかで希望の気配が残されているのがラストシーンである。そこにおいて、リザはあらためてロールに名前を訊く。ロール、と答えた口元には笑いが含まれている。ここに、ロールがロールのままトムボーイでいられる可能性を垣間見ることができる。

 

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