空に旅立った息子のこと
私、瀬古奈美は
今年の8月11日にちいさなちいさな男の子を出産しました。
そしてその子を9月24日にお空へと帰しました。
ここでは、空にいるその子と共に
彼がこの世界で生きた軌跡を伝えさせてください。
(いくつか息子の写真がありますが、治療中や容態が悪化した時の写真もありますので、ショックを受けるかもしれない方は、これより先を読み進めるのはご遠慮いただくようお願いします。)
*
結婚4年目の今年、第一子の妊娠がわかりました。
1年ほど不妊治療専門クリニックに通い続けて、夫婦で待ち望んでいた赤ちゃんが、やっと私たちのもとにきてくれました。
妊娠当初はつわりが酷く、起き上がることができない時期もありましたが、お腹の赤ちゃんはすくすくと成長していました。車に乗るといつも胎動が大きくなったので「車が好きなのかな?」なんて話しながら、男の子だとわかった赤ちゃんの姿を想像し、幸せな未来を思い描いきながら、ウキウキとマタニティライフを過ごしていました。
しかし、妊娠7ヶ月に入り、いよいよ出産準備をしなきゃと思った矢先、
7月20日の妊婦検診で異常が見つかり、緊急入院。
突然の出来事に茫然とするしかありませんでした。
そこでわかったのは、赤ちゃんが妊娠24週あたりからほとんど育っておらず、27週6日の時点で、赤ちゃんを包んでいるはずの羊水という必要不可欠なものがほとんど無くなってしまっている、ということ。
羊水は、最初は胎盤から出ていますが赤ちゃんの成長とともに、赤ちゃんの排泄したおしっこによって量が増えるものらしく、私のお腹の中では赤ちゃんがおしっこができていない=腎臓やその他の体の機能に異常がある、との診断を受けました。
もしその異常が酷ければ、生まれてきても大きな障がいを持つことになる。最悪の場合、命が危ないと言われました。
検診の直前までの幸せな気持ちは大きな心配に変わり、もしこの子を失ったらどうしようという不安と闘う日々が始まりました。
入院して、赤ちゃんはがんばって心臓を動かしてくれてはいれど、いつ何があってもおかしくない状態。ベッドの上での生活は常に胎動があるかを心配し、先のことを考えて不安になり、でも「この子は今生きているのにママの私がこんなんじゃだめだ」と自分を鼓舞して、なんとか過ごす日々。
しかし、入院から3週間、ついに赤ちゃんの心拍が弱り始め、
緊急帝王切開が決定。
8/11 16時46分。
予定日よりも2ヶ月以上も早い、30週0日で迎えた出産で、
538gの赤ちゃんがこの世に生まれました。
新生児の出生体重は2500g以下でも未熟児と言われる中、
わたしの赤ちゃんはその5分の1ほどしかないちいさなちいさな男の子でした。
生まれた直後、息子の声を聞くことはできませんでした。
しかし、小児科医の先生の処置のもと、なんとか息をしてくれて、命を繋いで私の目の前に来てくれました。
すでにたくさんの管に繋がれたちいさな体のか細い手を握って、「ありがとう、がんばろうね」と声をかけてすぐ、息子は集中治療室に運ばれていきました。
親子共に命がある状態でなんとか出産を終えましたが、息子はさまざまな合併症があり、輸血や投薬が必要な状態。
そしてその未熟さから、生後2日にして脆い腸に穴が開いてしまい、すぐにでも手術をする必要がありました。
私は母として母乳を飲ませてあげることもできません。
抱っこすることもできません。
とてもちいさな体でがんばっている姿を前にして、親の私は横で見守り、
手の先で触れながら声をかけ続けることしかできませんでした。
しかも、コロナ禍のため、面会できる時間は1日数時間。
毎日、一人で保育器の中に残していくことが、辛い日々でした。
名前は、一と名付けました。
「誰もやったことのない新しいことをはじめられる人になってほしい」という想いから、妊娠する前から決めていた名前でした。
想いが伝わってか、命の危機を何度も乗り越え、大人でも苦しい治療を受けながらも、愛らしい姿をたくさん見せてくれました。
医師や看護師さんからも、大物ですねと何度も言ってもらうくらい、強い子でした。
垂れた眉毛や目元が私似で、鼻や口元は旦那さんに似た一は本当に可愛くて可愛くて、病院に毎日通いながら、たくさんたくさん声をかけ続けました。
腸管穿孔の治療のため、人工肛門造設の手術を2度も乗り越え、
お腹に入れた管を通してやっと母乳が飲めるようになり、
これから体重も増えていける!元気になれる!と期待したのも束の間、
一の容態は少しずつ悪化していきました。
腸の手術後、回復に体力がついていかず、
体が限界を迎えているとの説明と共に医師から言われたのは
「この状態から回復した前例はない」という言葉。
どうして一が、あんなに頑張っているのに、
いやだ、生きていてほしい、置いていかないで
何度も声を出して泣きました。
だけどもう、その頃の一は、意識がある状態でいるのが
苦しそうな様子でした。
奇跡を願って治療を続けるか、
最後の時を安らかに過ごさせてあげるのか、
選ばなければいけない時が迫っていました。
そして、親として、あまりにも苦しい決断をしました。
血圧を維持するための輸血を徐々にやめました。
回復のための治療薬も減らしました。
目を覚まして苦しくならないように強い鎮静剤を投与してもらいました。
それらは別れが迫っていることを表していました。
そして親として、残された時を少しでも幸せにしてあげたい、
その思いからリスクを承知で、保育器の外に移動させ、
一をこの腕に抱きました。
ちいさな体はとてもあたたかくて、やわらかくて、
生きているということを実感しました。
やわらかな頬に顔をすり寄せて、
可愛らしいその匂いを嗅ぎ、
ちいさなおでこに何度もキスをしました。
大好きだよ、愛しているよ、と何度も伝えました。
それからは「今、一にできることならなんでもしてあげたい。」
その思いで、絵本を読み聞かせたり、
手足をあたたかいお湯で洗ってあげたり、
お友達だよ、とぬいぐるみをそばに置いたりもしました。
しかし、同時にお別れの準備もしなければなりませんでした。
病院を出る時のお洋服、お空に持っていくおもちゃやおやつを買いにいき、
またこの世界に帰ってきたくなるよう、大勢の仲間から、一に宛てて「待っているよ」と手紙を書いてもらいました。
そして、病院に無理を言って、一の祖父母である、私たち夫婦の両親と一を会わせてもらいました。両親には「次会えるときはもうお空に帰ってると思うからちゃんと見てあげてね」と伝えて過ごした、わずかな時間でした。
それからも少しずつ容態は悪化し、病院に泊まり込みながら、
懸命に生きている一との時間を大事に大事に過ごしました。
私の腕に抱き、あたたかいその体を何度もぎゅっと抱きしめ、
「この腕の中にまた帰ってくるんだよ、忘れないでね」と伝え続けました。
そして、
9/24、14:52、一の心臓は止まりました。
私の腕に抱かれたまま、
ゆっくりゆっくりとこの世界から、お空へと旅立ちました。
*
病院を出る前に、看護師さんと共に手形と足形を取り、
はじめての沐浴をして、用意していたセレモニードレスに着替えさせてあげました。
NICUや手術でお世話になった医師の先生方や看護師さんに抱っこしてもらった後、たくさんの方々に見送られながら、病院を後にしました。
穏やかな表情の一を抱きながら自然と「ほら見てお外だよ」「一の好きな車に乗ったよ」と一が生きているのと同じように声をかけ続けました。
そして、初めての我が家に到着。そして初めて家族3人水入らずの夜を過ごしました。
翌朝、
仲良しのフォトグラファーさんにお願いし家族写真を撮ってもらいました。
尊敬する先輩のフローリストに供花を用意してもらいました。
そして、家に私たちの親と兄弟だけを呼んで、ちいさなお葬式をして、
次の日、たくさんの荷物を持たせて、一の体を空に見送りました。
残ったお骨はほんの少し。
ちいさな体でよくがんばったね、と何度も声に出しました。
一が生きたのは30週と45日。あまりにも短い親子の時間でした。
一を送った直後の日々はあまり覚えていません。
幸い、夫が常に一緒にいてくれたので、なんとか自分を見失わずに、今も生きることができています。
幸せと悲しみが嵐のようにやってきた日々の中で、
応援してくれる方々の存在に何度も救われました。
そのおかげで絶望の淵にいながら今何ができるか、
何をすることが一の幸せになるのか、考えることができました。
一が空へ旅立ってからも、たくさんの人が一と私達に会いにきてくれて、
みんなが一のことを知ってくれる、それだけで一がみんなの中に生きているようで嬉しくて、同時に私が愛されていることを教えてもらいました。
支えてくれたすべての人に息子とともに感謝を伝えたいです。
ほんとうにほんとうに、ありがとう。
正直、こうやっていろんなことを思い出して書き出すことがとてもつらくて、一を失う恐怖や悲しみが何度も何度もフラッシュバックしました。
でも一はとっても可愛くて、頑張り屋で、その命を精一杯輝かせて、
私たちに幸せを運んでくれたことを伝えたくて、
何度も涙を流しながらですが、なんとか書き上げることができました。
元気に大きくなった姿を見せることは叶わなかったけど、
今こうして、一が生きた姿をみなさんにも知ってもらえて、
みなさんの中にも一が生きて続けてくれたら嬉しいです。
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