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ふるせらる(5)小さな「箱」と、めねぎのうえんの話

あいつが悪い、私は疲れている、世の中がおかしい、あんたの感謝が足りない、上司がするのは当然だ、誰かが言い出したことやないか、俺はわるくない

世の中、色んなネガティブワードがありますね
でもこれは自分の言葉です。浅はかな私の言葉。湧き出る黒いもや

といっても直接的に誰かにそのような言葉を投げかけるわけでもなく
思った感情がずっと続くわけではありません
一瞬浮かんで、でもな俺もあれやねと打ち消す感情もでてくるわけです
しかしなぜ相手を貶めるワードが浮かんでくるのか
私だけかと思いましたが、どうやら同じように感じる人が世間にもいるようです
嫉妬と並ぶこのような負の感情、それを自己欺瞞と本書では表現しました。

この前ふと思いついて会社の後輩にこの本を渡したのですが、自分用に改めてノートもまとめておこうかなと思いました。

世界150万部の不朽の名作!
テレビ東京「モーニングサテライト」の「リーダーの栞」にて紹介されて大反響!
Google、Apple、Microsoftなどなど、数々の有名企業が研修に採用!
ラグビー日本代表、五郎丸選手も推薦!

身の周りの人間関係はすべて自分が原因で引き起こしている。
それこそが、本書のいう「箱に入っている状態」である。

「どうして彼は問題ばかり起こすのか?」
「なぜパートナーは勝手なことばかり言いだすのか?」

こうした問題を、私たちは「相手の問題」と考えがちだが、本当の問題は「自分」にある。

読み進めるうちに、家庭や職場での人間関係を深め、十分な成果を出す環境を作る方法を学べる。

世界的ベストセラーであり、日本でも25万人が読んで大反響を巻き起こした名著。

amazon 商品説明より

この「自分の小さな「箱」から脱出する方法」は2006年に大和書房さんから出版された本で、読まれたことがある方も多いのかなと思います
要約もたくさんあります。

なので改めてまとめるまでもないのですが、自分の行動に影響を与えた本であり、noteにおける自分なりのマイルールにも影響しているので、どこかで書きたいなと思っていました。誰かのためとかではなく自分が書きたいなと思ったら書くというルール。

それと、この書籍で出てくる自己欺瞞という言葉
これを説明することが当時の私には難しかった・・過去に同僚に説明しようとして相当苦労したことがあります
あれでちゃんと伝わったのだろうか?かといって自分が全部理解しているわけでもないし

あと、おそらくながらこの書籍で語られる内容にはなんらかの裏付けがあるのではないかと薄々思っていました。本書には出てきませんが
それについてようやく最近自分の中でひとつの解答が得られたので、それも合わせてまとめておきます

要約サイト

この書籍の要約やレビューは色々ありますが、こちらが分かりやすかったので載せておきます。

なお、このあとにいろいろ書いてるこの本の解釈については個人的な解釈なので、興味持たれた方は本を一読ください。図書館でも借りれると思います

さて本の導入部については下のサイトで紹介されていましたので、少し引用します

自己欺瞞とは何か?

自分だけが気づいていない重大な自分の問題

主人公のトム・コーラムが所属するザグラム社は、業界随一の成功企業だ。ライバル会社から1ヶ月前に転職を果たしたトムは、早朝から深夜まで仕事に励んでいる。高い集中力を発揮していることはもちろん、目標達成においても立派な成績を残してきたと自負している。妻には働きすぎだと呆れられ、文句を言われる日々だ。とはいえ、今後の昇進のチャンスではライバルに負けないよう、入社以来努めてきた。

そんな自信にあふれるトムが、ザグラム社独自の研修プログラムを受けることになる。そこで副社長のバド・ジェファーソンは開口一番、トムにこんな言葉を投げかけた。「君には問題がある。当社で成功したいならその問題を解決しないといけない」。

恥じることは何一つないはずのトムは衝撃を受け、戸惑った。しかし、トムに問題があることは職場の同僚、妻や子供など、トム以外の周りの人はみな気づいているという。

例えばこんなことに身に覚えはないか、とバドはトムに尋ねた。子供と遊ぶ約束をしていたのに、直前になり適当な言い訳でやめたこと。もし遊んであげても恩着せがましく振舞ったこと。妻と共有している車のガソリンが切れそうだと気づき、給油する時間があったにもかかわらず、妻には自分より時間的余裕があるはずだと思い、そのままにしてしまったこと。職場でも、本心では部下を軽蔑したり無能だと思ったりしていること。聞こえがよいことを言ってうまくコントロールしていること。

こうした例から言えるのは、トムが自分の周りの人を「我慢」するべき対象だと感じているという点だ。バドは続ける。「そう思うことが、実は私たちが自覚するよりもはるかに大きなダメージを家庭はもちろん会社にも与えているのだ」と。

flier「自分の小さな「箱」から脱出する方法」

この本はストーリー仕立てになっていて、それで完結します

理論的な説明はなく自己欺瞞と呼ぶ心理状態がひとつのキーワードとして物語が進んでいきます
分かりやすいですが、説明しにくいのはこの独自のワード「自己欺瞞」が出てくるが故でその説明に時間を割くことになるからかなと思いました

この物語は主人公のトムがとある成功企業に転職してから1か月たった頃、副社長から「君には問題がある。当社で成功したいならその問題を解決しないといけない」と言われるところからスタートします
そして、この問題こそが自己欺瞞と呼ばれる状態なんですね。

副社長といえど、君には問題があると言われれば、何だよと私なんかは思ってしまいますが、この主人公も同じように思い、そして仕事も励んで目標も達成しているのに問題とは何だ?と気になります
ートムに問題があることは職場の同僚、妻や子供など、トム以外の周りの人はみな気づいているというー

そこで副社長からこの会社の独自の研修プログラムを受けてはじめて・・とストーリーが進んでいきます
その後の展開などについてはこちらのブログで丁寧に紹介されていましたので、確認すると分かりやすいかなと思います

最終的に主人公の
自分だけが気づいていない重大な自分の問題
とはなんだったのか。これは言ってしまえば自分を正当化することが原因だったと言ってよいのかなと。
そのことによって引き起こされる問題がたくさんあるぞということがストーリー展開で語られていきます。
そしてどうやれば自分を正当化することをやめることができるのかも。

こうやって書きながら、前に読んだ絵本「めねぎのうえんのガ・ガ・ガーン!」を思い出しました
こちらの絵本は長い歴史がある芽ネギ農園に障害のある人を雇うことになり、色んな事に気が付いたというようなお話しになってる絵本です

めねぎのうえんのお話

京丸園という400年以上の歴史のある浜松の農園で13代目の鈴木社長のもとに特別支援学校の先生が訪ねてくるところからスタートするお話で実話みたいですね。

そこで「うちの学校の生徒をやとってもらえないでしょうか?」と特別支援学校の先生が申し入れをされて、社長は障がい者の方を雇ったこともなければ身近にも居なかったので断ろうかと思ってたようです
ただ色々やっていくうちに、なんか自分間違ってる?みたいなことに気が付くんですね。

それで芽ネギ農園の社長は職人技が必要な芽ねぎの栽培を見せて、いったんこのお話を断りました。しかし1週間後特別支援学校の先生がやってきて、これ使うとどうですかと言って下敷きを持ってきました。それで下敷きを使うとその職人技もできることを見せたところ、社長は今までの見方とは違う視点があることに気が付いたようです。ガーンというショックとともに

そして新しい視点が生まれると仕事に人を合わせるのではなく、人に仕事を合わせるという視点もあるじゃないかと気が付いたみたいです
ほうきを使って掃除をする仕事があったとして、それがうまくできないからだめだと思っていたけどとてもきれいにはなっていた
それでその人に農園の虫取りをまかせたところ農薬を使わなくてもいいほどにきれいになったと。時間内に早く終わらせることだけが仕事じゃなかった、ガーンと。

自己正当化

人と言うのは間違いは指摘されても中々認められないんですよね
それに間違いを指摘して逆に怒ってくる人もいるリスクを考えると日常ではご丁寧に間違いを教えてくれる機会はほとんどなく、仕事などで立場が明確に差があったり問答無用で攻撃してくるような人しか間違いを指摘してくれない。直接的なことばで。
自分で気が付けばいいですが、それもなかなかうまくいかない。自分を防衛してしまうんですね

そしてそういった自己防衛以外にも他人に対する不満というのがあります
何度言ってもやらないとか、逆に何も教えてくれないとかしてくれないとか

そこには何らかの相手に対する期待があるんだろうなと思います。つまり誰それはなんとかだった。私は○○したのに、○○だったのに。こちらは防衛とは逆の自分の不作為によって起きる正当化です。
このようなときに自分を正当化し、また正当化するために他人を批判するということがおきるようです

ではそのような正当化を起こさないためどうするかというと、他人には期待しないという選択肢もあります。期待が応えられないのであれば最初から期待しなければ問題は起きませんね
とはいえ人に期待するからよくないんだよという考えもありますが、なんとなくさみしい気もするんですよねそれは

期待と現実のギャップが自己欺瞞という自己正当化を生むことがありますが
そこで分かるのは期待が大きすぎた(小さすぎた)か、期待は適切だったが現実が小さすぎた(大きすぎた)ということでもあるんだろうなと思います。気づきです。

子供や部下やパートナー友達など、何かを期待して頼んで、それが期待した結果ではなかったとき、それは現実が伴わなかったということになりますが
思い返せば、自分自体が誰かの期待に応えられていなかったこともあるんですよ
そして生きていくほどにそういう経験は積み重なっていく。期待が正しかったとしても現実で応えられないこともあるぞと。期待も熱意も失っていく。

また、上司部下や親子供に対するような期待、何も言わなくても理解してほしいとかだと今度は期待が大きすぎて現実が伴わないということがでてきます
するとこれは無謀な期待だったなということに気が付けるチャンスです。じゃあとりあえず何かアクションが必要だし本当の期待はなんだったのかな振り返りもできます

こうした期待と現実とのギャップが引き起こす心理学的な現象は「認知のゆがみ」と呼んだりするようです
まさに期待によってその歪みに気が付くことができるってことでもあるのかなと。
期待をしないで失望などを回避することもできますが、気持ちを覆ったままだと気が付かないままになってしまうかもしれないですね

認知のゆがみ

期待をすることでギャップに気が付き、それが次を生む。認知が歪んでいたことに気が付いて、何か行動を起こす。期待もしなければそこでクローズして終了ですね。期待という余白を残しておくと次の波がやってくる。

そもそもそうした勝手な期待をすることも、認知が歪んでしまうことも誰しもあることなんだろうと思います
ということはそれを無くそうとしても仕方がないかなと。それが人であり生き物であるということですし
そしてそうした自己正当化や認知のゆがみに気が付くこともできるのもまた人や生き物ですね

自分が持っている小さな「箱」。もしくはめねぎのうえんでもあった、ガーンというショック。自分と外の世界の間では何かを通してしか認識することができない。それを色眼鏡と読んだりフィルターと呼んだりします。また箱を揺さぶられたときにガーンという音とともにショックも受けたりします。しかしそれらを捨ててしまうと何も認識することができません。

抱えていくしかないものがあるなら抱えているものが何なのか、時々包みを開いて中を整理すると少し気が楽になるかもしれない。
両書が伝えたかったことはそういうことなのかな?というところで筆を置きたいと思います

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