悪口
睡眠時間が少なく身体は疲れているはずなのに、なんだか眠れない夜をここ1週間ほど過ごしている。うとうとしては目覚めてトイレへ行くかもしくは水を飲む。時計を見ると眠りについてまだ20分もたっていない。お酒の力を借りようと思っても、アルコールの匂いを嗅ぐのもためらうわたしには毒でしかない。
1週間前に彼が泊まりに来た。付き合って一年半になる。いままで喧嘩らしい喧嘩もしてこなかった。順調といえば順調だった。けれど最近、ここにきて彼の行動が一つ一つ気になり始めた。眠れない原因はそれにあった。
過去に彼女がいたことは知っていたけれど、まさか存在を知ることになるとは思いもよらなかった。昔のバイト先の人たちとよく飲みにいくことはわたしも知っていた。けれどその中に昔の彼女がいるとは知らなかった。
*
彼との出会いは職場の同僚の紹介。同僚と映っているわたしの写真を見て気に入ってくれて、紹介されて食事をするようになり、交際に発展した。年齢はわたしよりも2つ上。
わたしもちょうどその頃、短大時代から付き合っていた男と別れて半年が経とうとしていた時だった。その男から好きな人ができたから別れてほしい、と言われた。思い当たることはいくつもあった。態度やメッセージのやり取りもそっけなくなり、ダメになることはどこかでわかっていた。あの頃、わたしは就職したばかりで、仕事を覚えること、職場になれることで精一杯で二人の時間を雑に扱っていた。当時付き合っていた彼氏は大学生で就職活動中で互いに忙しかったりし気に留めることもないようなことでもこじれていった。
*
「衣奈、今日暇?だったら夕飯付き合てよ」
話しかけてくれたのは同僚でわたしに今の彼氏を紹介してくれた日葵さん。仕事が終わった後、会う約束の時間を彼氏に知らせるのに、ちょうどメッセージを送る時で思わず手が滑ってスマートフォンを落としてしまう。スマホは鈍い音を立てて落ちたけれどすぐに拾う。
「大丈夫?」
「ごめん。ごめん。大丈夫。」
「壊れてない?」
わたしはディスクの上にある、ウエットティッシュでスマホを拭きながら答える。
「大丈夫ちゃんと動く。今日?ごめん日下くんと予定があってごめんね」
「えぇー、最近付き合い悪くない?。ま、彼氏と会うならしょうがないか」
「ごめん。」
「うまくいってるんだ?」
「まぁ何とかね。」
「そういえば、この間、日下元カノと吞んだらしいじゃん。」
「えっ?」
「知らなかったの衣奈?この間飲み会があってその時一緒に飲んだらしいよ。これ友達から送られてきた写真みる?わたしは出席しなかったけど。高校の同窓会のようなもんだよ。」
「うん。」
日下くんと日葵さんは高校の同級生だった。日葵《ひまり 》さんもわたしより2つ上。高校を卒業後にビジネス系の専門学校を卒業後2年ほど別の職場で派遣の仕事をして、今の職場に正社員として入社した。
「昔のアルバイト先の仲間と飲むって聞いてたけど…、元カノがいる飲み会だとはしらなかったな」
「確かに嘘は言ってないよ。日下と元カノ、何人かの友達と一緒に高3からずっと同じスーパーでバイトしてたからね。わたしはさ、会えば挨拶するぐらいの仲でさ、あんまり好きじゃないんだよね、日下の元カノ。なんかちょっとね。共通の友達がいるから誘われるけれどね」
綺麗な人だ。だれが見ても綺麗だと言える。肩まで伸びた髪の毛に緩いパーマをかけて、仕事の帰りなんだろうか、服もブランド物のスーツを着ている。
「昔のアルバイト先の人と呑みに行くって定期的に出かけてたけど、この人も一緒だったってこと?」
「それはないよ。彼女、就職して、半年ぐらいしたら香港だったか、台湾の方に仕事で転勤になって…それで別れたって聞いてるけどね。最近こっちに戻ってきたみたいで…それで飲み会開くってことになったみたいで。日下も正直に言えばいいのにね」
「なんで何にも話してくれなかったんだろ。」
「元カノが来ることを知らなかったとか?」
「そんな事ってある?」
日葵さんは小首をかしげる。
「本人に聞いてみなよ。でも、この連中との飲み会ならわたしにも誘いが来るから今度来たら知らせてあげられるよ」
と言ってくれた。日葵さんのその言葉に苦笑いだけを浮かべた。
*
わたしが就職したのは大手食品メーカー。そこで事務の仕事をしている。
立案され企画された商品の書類などをまとめたり管理したりする仕事。もともと自分でも事務のような仕事が向いていると思っていたから苦痛はない。ただずっとこの仕事をしているつもりはない。けれど辞めてどうなるのかもわからない、そんな不安な気持ちもたまに浮かんでくる。
日下くんは某インターネット会社でWEBデザイナーの仕事をしている、普通のサラリーマン。話は面白いし、身の回りのものは同年代のサラリーマンという職業で生活していくのに必要な知識とセンスで揃えられていた。
午後からの仕事は正直どこか上の空だ。一応会う約束はしているから
会うことは決めている。だけどどうして嘘までついて元カノとの飲み会に参加するんだろう。後ろめたいことでもあるのかなと考えてしまう。
「今日、夕飯でも食べながらさ話そうと思ったんだけれど…実はさわたし結婚するんだよ。」
パソコンの音をカチカチと鳴らしながら右隣りのディスク越しに日葵さんが話しかけてくる。
「えぇ、本当に?おめでとう。言ってたもんね、そろそろ決まりそうだって、正式にそういう事になったんだ」
「うん。ありがとう。」
「ってことは、日葵さん仕事辞めちゃうの?」
「子供出来るまではさ、続けるつもり。専業主婦なんてわたしむいてないし」
日葵さんらしいと思った。結婚かぁ、わたしもするんだろうか、なんだか想像がつかない。
「そういえばさ、衣奈の元カレと会ったよ。この間、向こうは気づいてなかったけれど、一人で何やら忙しそうに歩いてたよ」
アイツも今は、サラリーマンになっているはずだ。まだ連絡をとりあっていたころに、就職が決まった知らせをくれた。あれ以来3年以上会っていない。アイツとの出会いは短大時代によく行っていたご飯屋さんでバイトしていた彼にわたしが一目ぼれして、告白して付き合うことになった。そういえば、何度か日葵さんにもアイツを紹介して会ってご飯を食べたことがあったっけ。その時、アイツの愚痴を聞いてもらっていた。付き合って2年がたつ頃でいろいろと気になることが出てきた。帰りが遅いことを責められたり、デートの日に遅刻が増えたり、そんなことはよくあることだと思っていた。
「なんでそんなことでいちいち怒るの?」
「いや怒っていない」
それから当てつけの様にわたしへの態度が急変した。
「なんで連絡くれないの?」
「なんか最近の衣奈ウザい。」
「わたしウザいんでしょ?じゃなんで触るの?」
会えば小言と喧嘩を繰り返しどんどん仲はこじれていった。二十歳の男の心変わりのはやさと言ったらそれはジェット機並みに早くて、肉体関係がなくなって一ヶ月もたてばほぼ連絡が来なくなっていた。
日下くんとは喧嘩したくないというのが正直なところ。終わらせたくない。そう思った。
*
ーごめん10分遅刻!ー
そう連絡をもらい駅でまつ。二人でよく行くわたしが住んでいるマンションの近くにあるレストランで食事する約束だった。気軽には入れて気を使わない場所。それでいて料理は手を抜いていない。けれど今日はなんだか外で食事する気分になれない。ちょっとわがままでも言ってみるかな。
「ごめん!」
現れた日下くんはわたしにたいして悪びれもせずに謝るけれど、なんだか今日はその態度が勘にさわる。
「うん。大丈夫。悪いけど、今日疲れてて、なんだか外で食事する気分になはなれない。なんか何でもいいからテイクアウトしてうちで食べない?」
「いいよ。」
タクシーに乗ってマンションまで行く。車内で日下くんはスマホでいろいろと食べ物を頼んでくれている。
「衣奈、パエリア好きだよね?」
「うん。サラダもお願いしてもいい?」
「わかった」
わたしは日下くんがスマホを操作しているのを横目に窓の外の景色を眺めていた。少しだけわたしの機嫌の悪さに気づきかけている様だった。明日は土曜日、タクシーの窓に映る景色はいつもよりも賑やかしい。そんなことを思っていたら、ちょうど自宅に着くころに注文が完了したようだった。
ドアを開けて電気をつける。静まり返った部屋に帰る時は仕事の疲れから解放されて自由を得られるときで頭から足のつま先まで伸びをしてくつろげる自分だけの空間が存在する。そして、日下くんが部屋に来ればそこは二人だけの家庭のはじまりのような雰囲気を味わえる。
ドアを開けて電気をつけた部屋に今日は何も感じない。昨日、掃除だけは済ませておいたよかったと思った。
「俺、酒買って来るわ。なんかいるものある?」
「大丈夫。」
「そろそろデリバリー届くと思うから受け取っておいて。」
「うん。支払いはいいんだよね?」
「済ませてあるよ」
日下くんは荷物をおいて財布とスマホだけもって近くのコンビニへと向かう。5分経つか経たないかぐらいに、デリバリーが届いた。
「ありがとうございます。また、お願いします。」
「ご苦労さまです。」
ドアを閉めてすぐにコンビニの袋を下げた彼が帰ってきた。
「たまにはこういう食事もいいよな」
スーツの上を脱いでYシャツだけになってキッチンテーブルのイスにかける。
「着替おいていったの洗濯しておいたけれど出そうか?」
「うーん、とりあえず、お腹すいたから、食おう」
テーブルに並べられた食事を前にいつもの話が始まる。日下くんは、よく上司や先輩の悪口を言う。いつもなら、単なる冗談に聞こえるのに、もしかしたらわたしの不満もこんな風に友達同士で言い合っているのかな。
「このパエリアあんまりおいしくないね」
上の空のような雰囲気になったり、適当に相槌をうったりしていたけれど、その話をさえぎる様に、わたしはあえて空気が悪くなるようなことを言ってみた。
「なんか、今日機嫌がわるいな。」
「そうかな?」
「なんかした俺?」
わたしは無視して冷蔵庫の中から飲み物を取り出すして自分のコップにつぎながら
「そんなことないよ」
と言った。
テーブルに置いた。コップの音は気をつけたつもりでいたけれどいらだっている。
今日はSEXしてもよかったのにわたしは拒んだ。日下くんは機嫌を損ね、ソファーで寝るといって眠ってしまった。次の日、休日の朝をむかえる。今日は映画を見て買い物に付き合う約束だ。朝起きて、彼が一言。
「今日は帰るよ。何におこってるか知らないけどさ」
わたしは何も言わず、止めもしない。その後、この事で一ヶ月近く悩む事になる。
ーおわりー
この物語はフィクションです。
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