手話は誰のため?
Selamat siang,こんにちは!
インドネシアに滞在をはじめて1か月目、くらいの出来事なので、もうかなり前のことになりますが、インドネシア語の手話を学ぶ機会がありました。
インドネシア語、話せないのに手話とか何言ってるの?と思われても、その通り、としか言えないのですが、そんなほとんど話せない状態だったからこその気付きがあったので、今日はそれをシェアします。
そもそも手話に興味があったのか、というと正直全くありませんでした。日本にいるときから、なんか難しそうだし、必要に迫られたら、筆談でいいんじゃない?みたいな感じ。意識低くて本当にごめんなさい、責められても仕方ない意識の低さです…。
そんな私が今回参加した理由は、主催する友達に来て!って言われたから。(笑)(断れなかった、の方が正しいかな)
今回学んだのは、①アルファベット ②自己紹介 ③簡単な歌を手話で歌ってみよう の3つです。では早速その日のことを。
アルファベットと自己紹介を習っているときは、なるほどなるほど、という感じだったんですね。いくら話せないといえども、自己紹介くらいはできるようになっているので、あんまりありがたみを感じなかったわけです。
意識が劇的に変わったのは、歌を手話で歌う、となったときのこと。
歌に出てくるレベルの単語となると、ほとんど分からなくなるんです。はじめに歌を流されたときに、はっ??となりました。
でもね、おもしろいことに、手話をつけて歌ってもらうと、なんとなくわかるんです。
ここ(di sini)、あそこ(di sana)、どこ(di mana)、という、どれがどれだかまぜこぜになってしまう単語たちも、すっと理解できて。
もしかしたら手話って誰か特定の人のものではないのかもしれないな、って。そんなことを自然と思いました。
今、手話を主に使っているのは聴覚障害がある方やその周りの人たちでしょう。そして私のように難しいから知らなくていいや、と思っている人が少なからずいるように思います。
でも手話はもっと可能性がある気がするのです。言語習得の過程で手話があることによって覚えやすかったり、手話を習うことを通して新しい人とのつながりができたり。
誰かのもの、という固定の概念をなくしたら、もしかするとなんだか生きやすくなるような気もしています。手話だけに限らず、いろんな固定概念を固く持ちすぎないで、もっと柔らかく考えたらいいのかも。
ちょっと考えすぎました、本題に戻ります。
じゃあ明日からみんな手話を習おう、なんてことは言いません。普通に考えて私には無理です。
でも手話は特別なもの、自分には関係ないもの、と思うその気持ちを少し変えてみることくらいはできるのかな、とも思うのです。
そうした誰かの心持ちが変わることが、いつか社会の変化につながるのかな、そうしたらもっとみんなが楽しく生活できる社会になるのかな?
なんてきれいごとにしか聞こえないかもしれないけれど、そんなことを思った1日でした。
まとまらないけれど今回はこのへんで。
とりあえず、明日も素敵な日になりますように。
Sampai jumpa! またね!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?