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精神疾患患者のプライバシー

 知人のK君からの着信だ。
「沖さん、ただでさえ外出るのさえきついのに、あの精神科医の夫婦……」
「どうした?」
「昔、自分を診察した精神科医と奥さんが、いつもいく公園を散歩してるんですよね。自分を見ると、何かこそこそ話をして馬鹿にしてるようで。恐らく僕の過去の家庭環境や病状を奥さんに話したのだろうと思います。やっと療養のために散歩できるようになった公園なのに、行くのが苦痛で……」
「なんかいいよったんかな? きつかったね」
「精神科医が配偶者に患者の個人情報を話すのは、プライバシーの侵害ではないんでしょうか……」
 例え患者の家族や職場の方からの問い合わせであっても、本人の同意がないのに個人情報を漏らすのは守秘義務違反だ。
「沖さん、そいつ、心療で、昔、親にバットで殴られた跡も、証拠もないだろうって。妄想じゃないのかって言われたの、忘れられないんだ」
「バットで殴られた跡なんて何年も残らんからな。妄想と決めつけるのは短絡的過ぎる」
 とりあえず、わたしはK君と一緒に公園へ向った。
「君は中間地点の東屋で囮ね。わたしは夫婦がいつも来る入口で待機して、尾行しながら撮影録音する」
 わたしはボイスレコーダーや各種小型カメラを纏って公園入口の茂みに隠れた。K君を見た夫婦が交わした会話や挙動を背後から記録するのだ。
 ほどなくして、K君の情報通りの時間に精神科医の夫婦は歩いてきた。
 K君の姿を認めると、奥さんは精神科医の夫に大きな声で話しかけた。
「やっぱり障害者年金で生活保護だから、あんな屋根のあるところで、クーラー代浮かせてるのよね」
 やはりKが言っている通りだった。わざとらしく個人情報を叫んでいる。周りにちらほら10人ほど人もいる。
 わたしは、彼らに近づき、丁寧に声をかけた。「すみません、お二人にお話があります」夫婦は驚いた表情を浮かべながら私を見つめた。
「今、あの東屋のあの方のことを話してましたよね? わたしはご主人の職業を知っています」
 夫婦ははっと顔を見合わせた。
「そのような会話は、夫婦であっても、人目があっても無くても、してはいけません。信頼を損なうだけではないし、法的にも問題が生じる可能性があります」
 夫婦はしばし戸惑った表情で互いを見つめ合った。「おたくはどちらさんですか?」
「ちん◯んです」わたしはボイスレコーダーや各種小型カメラを目の前に次から次へと掲げた。
 夫婦は大きく目を見開いて互いを見つめ合った。
「私はちん◯んという名前ですが、今倫理について話してます。ちん◯んじゃなくて倫理ですよ。こんな風にラッパーみたいに言葉遊びで韻を〈踏む〉のはまだ許せますけどね。患者のプライバシーを侵害して尊厳を〈踏みにじる〉のは許せません。ライムとラインの話というのはお分かりですか?」
 夫婦は怪訝な表情で私の言葉を聞いていた。
「社会的制裁を受けることは、誰しも避けたいものです。患者のプライバシーを尊重し、適切な対応を取ることが大切です」
 精神科医の夫は頷いた。「わかりました」唇を噛み締めながら「申し訳ないが、失礼する」と、何か言いたげな奥さんの頭を押しやりながら、何かを言いつけるようにしてその場を立ち去った。
 わたしは、公園を続けて歩いた。一周回るとまだ入口の茂みにK君が座っていた。顔を見ると、オデコやコメカミを蚊にたくさん刺されていた。
「蚊に刺されまくっとるやん」
 K君はコメカミを掻いて、はにかんだ。
「沖さん、この度はありがとうございました。もしよければ、明日の朝五時半に、朝食済で、えと。ここ集合で、朝散歩で時間厳守でよろしいですか?」
 わたしはポケットから虫さされ用の薬を出して、患部にチョンチョンと塗ってやった。
 「ムヒやろ」
 歩きながら振り向くと、K君はコメカミを掻きながら笑っていた。

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