食事からの自愛

私は食へのこだわりはあまり無い方だと思っている。
「何食べたい?」と聞かれることは非常に悩ましい。
希望を聞いてくれているというのだから、ジャンルとかメニューとかを答えるのがいいように思うけれど、それが難しい。
とは言え「なんでもいい」という回答だけはしないと心に決めているから何かは答えるし、心の底から何も思いつかない時は「お任せしたい」と委ねる。
自分から誘う時も気軽に同じ質問をする訳で、そこまで深い問いでは事も承知はしているが、私の周りには自分が食べたいものがはっきりしている人が多いし、得てして皆エネルギッシュだと感じる。
食は日々生きる事と密接な関係があるからこそ、希望を問われる経験もそれなりにしてきたけれど、その都度食べたいものの希望が無い事が多い自分になんだかガッカリしてきた。

何を食べるかにはあまり希望はないけれど、食事の時間をどう過ごすかには私なりの希望があり、食卓を囲む時は相手を知る時間にしたい。
昭和モデルの私は「黙って食べなさい」と幼き頃言われたような記憶がありつつも、家族なら今日のトピックやテレビから話題提起されたことで意見を言い合ったりしながの時間にしたいし、友人ならば近況や考えている事などを知りたいと思う。
だからジャンル的なことでいえば麺類が好きではあるけれど、あれこれ話して食べるのには不向きな食材。久々に会って「ご飯でもどう?何がいい?」と言ってくれる人に、ササッと食べ終われるであろう「ラーメン!」「お蕎麦!」とは何故だか言いだしづらい。好きなものを聞かれているのだからササッと頂いて、場所を変えて話せばいいのだろうけれど、それまた申し訳なさが出てきて瞬間考えた末、頭からプシューという音が聞こえてくる。
ちなみに麺類メジャーどころの序列はラーメン⇒お蕎麦⇒焼きそば⇒パスタ⇒うどんだ。

食べたいものが特に無いのがデフォルトの私にとって、食事のメニューを考えるという「名もなき家事」これは本当に重労働だ。
冷蔵庫を管理している人は本当に素晴らしい。
フネさん、サザエさんも自分の希望ではなく、栄養やらバランスのみならず「またこれ~?」という暴言や食材の消費期限への対策をしながらその上各人の好みまで考えてメニューを考えているわけで、日々誰かのために食事を作成している方々の影の労力はもっと報われてもいいように思う。
私の食事をせっせと用意してくれていた母には改めて心から感謝したい。

今日のテーマが食である理由。
先日、スーパーで目に留まったので購入したカップ麺。
なかなか食べる機会が訪れず、楽しみをとっていた。
そして今晩、食事を用意しなくていいという事が判明した日、
やったー!どん兵衛食べよう!と瞬時に思ったわけだが台所の片隅にラップがかけられて鎮座している残り物群の視線を感じる…。
どん兵衛を食べてしまったら、あのラップの中身が…。
いや、冬だし腐らないから、明日でも…。
珍しく食べたいものがあるならソレ食べようよ!と脳内会議。
どうしようかと思っている時、あぁ食事でさえ自分に我慢をさせているのかと笑えてきた。私は堂々とお湯を注いで念願のインスタント麺をズルズルすることを選んで「自分の望みを叶えてあげたことに満足した」という話。

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