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『決意を新たにすること』ほど無意味なことかもしれないが…。note執筆を再開します。

「決意を新たにする」ことほど無意味なことはない。ぼくが自分の意思の力でなにかを変えられたことなんて、これっぽっちもない。

先日も村上春樹のエッセイ本にもろに影響され「ランニングを始めるぞ!」とシューズを買ったのだが、これはもっぱら近所のお散歩用となっている。

自分を変えて何かを始めるためには、時間配分を変えて、環境を変えるしかないと言われる。たしかにそうかもしれないが、環境や時間配分をあれやこれやと変えるにしても、相当な意思の力が必要になる。

ぼくの人生で何かをやり遂げた数少ない事例をとっても「もうヤバイ、ヤバイ」と、どうしようもない状況のなかで、ようやく尻に火がつきギリギリ切り抜けてきただけである。

10月の誕生日で47歳になる。40歳を過ぎたあたりから、年齢に対してこだわりがなくなったような気がする。先日アーセナルが8年ぶりにマンチェスターシティに勝利した。その試合を視聴しながら、年齢に見合わない熟練したプレーを魅せるフィル・フォーデンの背番号47を目にして、自分が47歳になることを思い出したくらいである。

ただ最近、かつて自分の寿命について考えていたことを、ふと思い出した。今から25年ほど前に母親は49歳でこの世を去った。死因は乳ガンから骨髄ガンに転移したものだった。そして、母方の親族の多くも癌により早死していると聞かされていた。いわゆるガン家系の遺伝子を引き継いでいることは間違いない。

20代であった当時の自分は「49歳まで生きられたら、御の字だな」と漠然と考えていた。そんなこんなで47歳まで生きてこれたが、仮に49歳を寿命と考えると、かなりヤバイ。あと2年の猶予しかない事になる。

そこでステーブ・ジョブズのあのフレーズが響いてくる。

「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」

残りの人生が有限な時間であることを意識しながら生きるというのは、そう悪いことではないように思う。

余命宣告を受けたとしたら自分は何をしたいか自問自答してみたが、くだらない欲望ばかりでここに書くこともはばかれるものばかりである。
(例えば有村架純と会うために、あらゆる努力や手段を試してみるとか…。)

そんなことを考えながら、とりあえず久方ぶりにnoteを書いてみた。

最近は寝る前に漠然とマルクス・アウレリウス「自省録」をランダムに読んでいる。
2000年以上前のローマ皇帝の日記のようなメモ書きが現代まで読まれていることが奇跡的なことだと、毎回ながら感じる。

その中でもお気に入りの一節がある。

空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない。

若い頃なら響かなかったかもしれない。この年齢になってじんわりとこの言葉が胸に染み込んでいる。
20代の頃は司馬遼太郎の「坂の上の雲」のように、何かの目標に向かって登っていく高揚感が感じられた。しかし、経済や社会が停滞していたまま30年の月日を重ね、40代後半を迎えた今、”諦念”とまでは言わないが何かに抗えようとしない自分がいる。

このフレーズは以下のように自分なりに解釈している。

この瞬間に生きている主観的な自分自身の存在というものを感じること。具体的にいうと、良し悪しにかかわらず、どんな状況下においても「趣深いなぁ」と達観して自分というものをそのまま受け容れること。

人生はままならないものであり、めっぽう調子の良い時もあるし、最悪な時期もある。たいていの人は世間の基準の幸福を追い求めてしまう。ぼくが人生のどん底に落ちている時期を振り返ってみると、間違いなく苦しくて2度と戻りたくない状況であったことは確かだ。一方で、あの時期に人生の最高の楽しみも見つけることができたことも事実である。それが今でも自分の生きている喜びや実感となっている。まさにアーセナルと読書である。

こんな戯言のような文章がマルクス・アウレリウスのメモ書きのように2000年後に読まれるかも、と夢想しながらもnote執筆を再開したいと思う。

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