20240205 春にはまだ早い

いつものような死をも覚悟するような寒さを身構えて外へ出ると、思いの外柔らかな風が頬を撫ぜた。もう春がきたのか!?と驚きつつ天気予報を開けばマイナス13度と表示される。これを暖かいと表現するのは不自然に思われるだろうが、普段より10度も高いのだ。春が来たと錯覚するのも無理はない。通りへ出ればマフラーも帽子も被らずに歩く男性とすれ違った。頬は冷気によって紅潮していたが、足取りは軽く、硬い雪を踏み締める緊張は見られなかった。

最寄りのスーパーまでは歩いて7分ほどだ。緩やかな坂道を登れば広場が見える。冬の間は雪まつりが行われており、氷の彫刻や滑り台などが日を浴びて透明な光を湛えている。子供のはしゃぐ声が響いている。少し寄って見てみようかと思いつつも、私は長くは外出していられないほどの空腹を感じていた。そもそも食べるものがないから重い腰を上げて外へ出たのだ。寄り道している暇はない。広場を通り過ぎれば目的地だ。キャベツとパンと牛乳を買わなければならない。野菜の山から腐っていないキャベツを探す。日本ではあり得ないことだが、この国のスーパーに並ぶ野菜はよく腐っている。だから寝ぼけたままに買い物をしていたのでは駄目だ。また、完璧な新鮮さも求めては駄目だ。多少葉が変色しているものの比較的新鮮そうなキャベツを籠に入れる。にんにくも買う。明日からまた冷え込むようなので体の温まるスープを作るつもりだった。帰り道に食べるためのピロシキとタバコも買った。
この国のタバコのパッケージには生々しい肺だとか心臓だとか眼球だとかの写真が印刷されておりそこに「苦しい死」と書いてある。なかなかロックだ。この警告表示はWHOが管理している条約により規定されているもので画像での警告表示は77カ国でされているらしい。今ウィキペディアを読んだ。以前知人にお土産で1ダースのタバコを渡したことがあったが、若干の後ろめたさを感じた。グロ画像送ってるみたいだなと思った。

家に帰って夕飯の支度をする。その間に仕事を終えた彼氏から電話がかかってきた。いつものようにギリギリのジョークと愛の言葉と教養を重ねてくる。変な奴だと思う。鶏肉のクリーム煮を作っていたら牛乳が分離してしまった。酸味の強い白ワインと一緒に煮込んだせいだろう。あまりの見た目が悪さに苦笑する。味がよければいいよなと思いつつ食べるが、さほど美味しくもない。火をとめるのを忘れてしまい、残りのクリーム煮は焦がしてしまった。駄目駄目、駄目駄目だ。まあ駄目駄目でもかわいいしなと鏡を覗き込めば新しいニキビを見つけた。昨日夜中まで深酒したせいだろう。昨日は本当に酷かった。電話を切るのは嫌だ、一生寝るなと泣きながら駄々を捏ね、その様子を自ら客観視しては爆笑し、電話越しの彼氏を困惑させた。理性はなくても俯瞰で見ることはできるらしい。それが大きな発見だった。恥や後悔は生まれてこず、代わりに感情に振り回された快感だけが酩酊した頭に残っていた。申し訳ないとは思っていたので、今朝謝った。彼は嬉しそうに笑っていた。変だなと思った。

今から焦げついたフライパンを洗わなければならない。私はこの世で一番皿洗いが嫌いだ。

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