20240220 橙

友達が別の友達と遊ぶために駆けていく後ろ姿をずっと覚えている。幼稚園の頃の記憶だ。気恥ずかしさと惨めさを覚えながらも別に一人でも楽しいしなと自分を納得させていた。そのうちに遊びに没頭して惨めな気持ちは忘れた。1人で遊ぶ方がみんなと遊ぶよりよっぽど孤独を感じない。思い通りに動いてくれない他者に腹を立てることもなければ感情や思考に干渉されることもない。恥をかかされることもない。その頃から私は頭の中に逃避することを覚えた。本を読むこと想像することお話を作ること。おままごとやお人形遊びも1人でやった。

とはいえ学生時代、全く友達がいなかった訳ではない。しかし友達がいない奴とばかり友達になった。それを狙っていた訳ではない。(はず)友達がいない奴は人間とのコミュニケーションに重きを置いておらず私に気を使わない。それが楽だったのだと思う。選民思想でプライドが高くて傲慢で気が強い、そういう奴が隣にいた。彼女たちはなんでも持ってたから私に対して妬み嫉みの感情を向けることがなかった。彼女たちは外野になんと言われても自分のやりたいことを貫き、空回る幼稚な正義感を振りかざしてずっと怒っていた。数年越しにその中の1人に連絡を取ったら彼女の口から「そんなのは結局理想論だよ」という言葉が出てきて少し寂しく思った。

高校生の時コミュニケーションにエネルギーを全振りしてみたらめちゃくちゃ人に好かれた。愛を持て余していたからスピーチで「お前らは生きているだけで価値がある生きているだけで愛されるべき」みたいなことを全校生徒に向けて話したほどだった。生きているだけで愛されたかったのは私だった。
そんな執着がなくなったのは皮肉にも親の愛を信じられなくなってからだ。期待をしなくなったら楽になった。期待に応えたいという気持ちも失せた。
「お前は優しいけど冷たい」と言われたことがある。本当にその通りだ。他者に親切であろうと心掛けているが、それは別に他者と繋がりたいからではない。他者が好きだからでもない。愛されないと助けてもらえない、愛されないと生きられないこの世はクソだと思うからだ。愛されなくても生きていたい。お前は愛されなくても生きていていい。生きる価値はお前が決めていい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?