20240214 短いお話

観覧車なんて乗ったのはいつぶりだろうか。恋人は楽しそうに、しかし慎重に窓枠に手をかけて徐々に小さくなっていく世界を見下ろしている。驚かしてやろうと肩を揺さぶれば「やめてよ!」と焦った顔で叫び、照れ臭そうに笑った。私も楽しくて笑った。
「家、見えるかな」と彼女は呟いた。
「帰りたいの?」私と帰る家じゃない家のことなんか考えてほしくなかった。彼女は少し驚いた顔をして「ごめんね」と言った。
「帰らないよ」言葉の重みを証明するように彼女は強く私の手を握った。泣きたいのか嬉しいのかわからない顔をしていた。
「ほらあっち」彼女の家があった方角を指し示せば夕日が彼女の頬を赤く染める。地上は焼け野原だった。でも前より空が広くなって清々しかった。窓の外を見つめる彼女の横顔からは何の感情も読み取れない。私は握られた手から指先を絡め滑らかな爪をなぞった。彼女の爪は弓形に反っている。「たんぱく質が足りないとそうなるんだよ」と私はいつか言ったことがあるが、彼女は全く聞く耳を持たなかった。しかし私はその弓形の爪が好きだったのだ。宇宙の暗闇の中で逸れても爪を辿ればきっと見つけられる、そう思った。何度もなぞって、唇に持っていった。赤子がそうして世界の形を知っていくように、私も彼女の輪郭の全てを知り尽くしたいと思った。指からはさくらのハンドクリームの香りがした。


薄青い微睡のなかで「寒い」と呟く声が聞こえた。「寒い?」と掠れた声で聞き返して「うん」と言われる前に抱き寄せた。人はあたたかかった。彼女の胸の中で「もう寒くないでしょ?」と聞けば彼女は返事の代わりに私の頭を撫でた。思い出せない夢を反芻する。急に不安が胸に忍び寄ってきて堪らずに腕の力を強めた。彼女も腕を背中に回して抱き返してくれた。これだけくっついても心がわからなくて悲しかった。抱きしめるほどに遠く感じた。窓の外では朝が始まろうとしている。朝を拒みたくて私は硬く目を閉じる。私の世界は彼女の匂いと体温と規則正しい鼓動だけになった。瞼の奥で観覧車は回り続けている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?