20240208 それでも

私は私の人生のために生きているということを忘れてしまう。つい義務を果たし誇りを守るために努力をしようと考えてしまう。愚かな生身の肉体を社会で曝け出して生きていけるほどの度胸もなければ、美しい布を織り身にまとう技術もなく、閉ざされた部屋と開かれたインターネットが私の居場所だった。自然なコミュニケーションは難しい。相手の気持ちを考えるとなにひとつ物が言えなくなってしまう。発する言葉の全ては暴力になりうる。相手の気持ちは分からない。優しさは想像力だ、と言う人がいる。想像力から生まれる優しさも勿論ある。しかし、相手に対する想像力の源泉となるのは己の感情だ。その感情が他の人とずれている場合、勿論その想像も大幅にずれる。そのため大衆の平均の域を出ない感じ方をする人には効果のある方法だとは思うが、平均から大幅にずれた感じ方をする人間にとってはいまいち効果はない。ずれてる人間は相手を観察するしかない。人間は何が嫌で、何を好むのか。何を言えば笑い、何を言えば怒るのか。どんな行動が“優しい”とされているのか。それがわかれば優しい人になれる。
相手の気持ちを実感することが困難だから、感情の中で度々迷子になる。相手は何を思っているのかを考えると不安になって悲観的な妄想に囚われてしまう。妄想は妄想でしかない。先回って察そうとするより観察で得たテンプレの対応を取りつつ感情については事実を確認するべきだと思う。勿論これは感情不器用な自分に向けてであって感情器用な方はこんなことする必要はないだろう。もしくは当たり前のことをなんでわざわざ…と思うのかもしれない。

嫌なことを思い出す。いい思い出というのは時に腐臭を放つことがあるが、嫌な思い出というのは不思議と乾いて無臭である。ただ手指から熱が引き、視界が白け、体の輪郭が曖昧になる。とっくに十字架は下ろしたはずなのに掌に刺さった杭が抜けない。記憶の上映が終われば痛みだけが残る。冥土の土産にできるのはきっとこんな痛みだけだろう。いや、そんなことじゃ地上から離れられないか。

愛の暴力性を多方面から思い知らされて、それでも貫きたい愛があった。護れなきゃ終わりだと思う心があった。踏み躙られた尊厳と一瞬の怒りを忘れないために、薪を焚べるのを怠らなかった。怒りは音もなく燃え続けた。燃えているは私だった。火はあたり一面、日常さえも燃やし尽くして高々と火柱を上げた。灰に埋もれて安息を手に入れた。昏昏と眠り続けた。眠りから覚めて、剥き出しになった冷たい鉄の支柱に触れた。あーあ、やっぱりなと思った。その瞬間からずっと私は私に失望している。こんなものだ、私は。
しかし、それでも、を証明するために生きている。それでも心はあるんだ。

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