20240202 羨望を潰せ

大きな仕事が終わって心にも余裕が生まれたため、住んでいる国の歴史を学び直している。すると、国民性の成り立ちなどが浮かんできて面白い。国民性は何を常識とするかによって左右される。常識は習慣で作られ、習慣は教訓で作られ、そして教訓の先にあるのは歴史や風土だ。(勿論、どの国にも弱気な人強気な人実際的な人空想的な人、と個人の性格には様々なバリエーションがあるが、皆共通の社会通念の元で暮らしている。どれだけ常識外れな人間でもその社会通念を認識せずに生きることは困難だろう。)
独裁国家では国(政治)の性格と国民の性格が一致することは少ない。毒親と子供のような関係だ。長い弾圧を受けて多くの国民は無力感に支配されている。触らぬ神に祟りはなしといったところだろうか、皮肉なことに、人々の声は届かずその意向に翻弄されるのみという構造は似通っている。

高校を中退して留学をしたため、私の日本での学歴は中卒だ。それに対するコンプレックスはないと言いつつも、教養が欠けていることに対する羞恥と学びに集中できる場所がある奴らへの羨望を拗らせている。留学までしたのに進学もしたかったなんて強欲だとは思う。自分の選択に責任を持つなら愚痴を吐くなとも思う。しかしここで「でもだって」が出てきそうになるのがこの欲なのだ。
昔から学ぶこと自体が好きだというのに加えて、私は学校という場も好きだった。目的がはっきりしているから身の振り方にまごつくこともなかった。課題やテストも嫌いではなかった。登る山を示してもらうとワクワクした。苦しくてもその力をつけていく感覚が好きだった。勉強への強制力が消えたからか、ポジティブな印象ばかりが思い出される。

学んだつもりになっても結局は猿の浅知恵だ。という考えが頭をよぎる。今は自己満足の学びなんだからいいじゃないかと反論しつつ、悔しさで喉が詰まる。大学で体系的に学んでいる奴らには敵わないじゃないかと泣きたくなる。しかし「どうせ」と言いつつ何もしないよりは、学んだほうがいいのだ、当たり前に。「ママしか褒めてくれないよ」とか言って学習意欲を削ぐような奴のことは無視するべきだ。元から誰かに褒められるために学習をしていたわけではない。

とはいえ、これで納得して治るようなしこりではなくて、中退した頃からずっと「こんなに学びに向いているのに!!」と幼稚な自己効力感を掻き抱きながら地団駄を踏んでいる。ガキの心を救うためには大人の私が納得させるか、それが無理ならば現実にしてやるかしかない。それに嘆いているだけはキモい。ゴタゴタ言ってる暇があったら頭を動かせ。帰国後の目標は大学進学です。


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