言葉はどう言ったかよりどう受け取ったかの方が大切

新聞の投書欄で、 医師にこんなひどいことを 言われ傷ついた 、腹が立ったといったもの をたまに見かける 。
それを見て、もうちょっと言い方を気をつければこんなことは起こらないんじゃないかと思っていたが 、その考えが 違っていたのではないか と思うことが 先日あった。

義父は今年に入って急激に 認知機能も足腰も弱ってきた 。
先日 義妹が 義父を外に連れ出した時 車椅子に乗って出てきた ということを聞いていた。
日によって車椅子になったり、 ゆっくりでも歩けたり 、ムラのある状態 らしい 。

義父は定期的に耳鼻科に通い 耳の掃除をしてもらっているのだが、 その通院日はたまたま 歩ける ような状態だったので連れて行ったが、 歩くことはできるが 椅子に座るということもおぼつかない状態であった 。
その状態を見て 耳鼻科医が「あまり大変なようなら もう来なくていいですよ 。耳が聞こえなくても命には関わらないんだから」 といった 。
私はこの言葉を好意的に受け取った。
なぜなら 常々 そう考えていたからだ。
しかし 義妹 は違った。
その言葉に 怒り 、「父が耳が聞こえなくなっても構わないということですか。 認知機能に関わってくるのではないですか 。」と詰め寄った 。
帰りの車でもかなり怒ってい た 。

確かに 耳が聞こえなくなるというのは 生活の質 を著しく落とす。
聞こえないより聞こえた方がいい。
ただ冷酷な言い方をすれば 、88歳の義父は今 耳が聞こえなくなってもその状態が続くのは どんなに長くても15年 。
しかし 足が不自由になった義父を介護するために腰を痛めれば 、義妹は後30年ほど 不自由な生活を送ることに なる 。
実際 すでに 義母の介護では腰を痛めている。
その上 義父は 自分から 介護者に 手助けになるような動きをせず、ほ ぼ 預けっぱなしで 介護する方の負担はかなり大きい。
そんな状態の義父を車椅子に乗せる 、椅子に座らせる というようなことは かなり 介護者の負担が大きい 。
実際 私と義妹では義父を椅子に座らせることができず 、看護師さんに手伝ってもらった( だからこその 耳鼻科の言葉だったのかもしれないが)
私は自分ができること できない こと考えて、できないことは無理にやったりはしない。
しかし義妹は 怒りながらも、 全勢力をかけてやる。
しかしそういった 介護は長続きしないので、 義妹は時々 介護を ドロップアウトする 。
ドロップアウトしながら、また戻ってくると 何もかも やりすぎてしまう 。
そして厄介なことに それを自分の夫にも強要する。
夫婦で出かける時 義父の 面倒を見るのは夫 だ 。
以前 介護施設に親を預けっぱなしにするなんて子供の責務を放棄していると 義父が言っていたが 、それが頭に残っているのか 義妹 夫妻は週に1回ほど 義父を外に連れ出す。
しかし たとえ 週に1回でもその負担が過剰であれば 肉体的に負担は大きい。
義妹が腰を痛めても それは本人の選択の結果だが 、夫の方は付き合いで 腰を痛めることになる 。
そしてその腰を痛めた夫の世話をするのは結局 義妹となる。
しかしそれでも 自分は介護をやりきった と納得できるのであれば 構わない。
しかし 両親のせいで こんな状態になったと思うのならば やめたほうがいい 。
私はそう思うのだが、 義妹はそう思えないらしい 。
結局、どうするかは自分で選択するしか ないので 、私には何も言えない。
義妹と私は 一緒に医師の話を聞いたが 、受け取り方は正反対で 、さらに これからの行動も もしかしたら 真逆になるかもしれない 。
全くの非常識な言葉でないのならば 、どんな言葉を選ぶかは あまり意味がないのかもしれない 。

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