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運命とは我々の精神何如(いかん)による

運命という言葉は易者の言葉なんですよね。
西洋や神道などには存在しない言葉なので、ほとんど間違えて使われています。大体が運命は変えられないという使われ方ですが、それは完全な間違いであってそれは運命ではなく宿命という哲学です。

宿命というのは命が宿ると書いての通りで、お母さんのお腹に宿った時に決まっているものです。
運命というのは、良いこととか悪いことが起こる神の氣まぐれみたいなものを受けて自ら運んでいけるのが運命です。

だから運命の達人というのは良い時を持続させて、悪い時には転換させる力を持つんですよね。
運命の悪い人はその逆なんですよね。悪い時はそこから抜け出せずに悪い道を進み続けて、たまに来たチャンスを掴めない。
だから総じて運命が悪いです。

運命というのは中国語ですから逆に読んで命を運ぶと書いて、運命です。
だから運命というのは自己責任なのですね。
我々人類が天から裁量権を与えられていることは、非常に少ないこと。

天候や季節や災害。我々の文明がどれだけ発達してもそれらをコントロールすることは不可能。我々の人体でさえも、コントロール出来ることはごくわずかで限られています。

その中でも比較的にコントロール出来るのが精神であって、運命の達人というのはその精神のコントロールに通じているということ。

だから、良い精神の時には良い運命。悪い精神の時には悪い運命であるということなんですよね。
だから、健全な精神である時というのは我々と天を結ぶ魂も、純粋かつ健全であって、魂の中に運命や天命を宿命が格納しているというのが儒学の基本的な考えです。


健全な魂というのが一番自然な状態であって、天はこのような者を助けて育てようとする。ただ吉い運命だからと言っても良いことばかりではなく、このような者には試練を与えて、それを乗り越えてくるのかを見ています。
なので、中国の古事では禍いの中に福があると考える訳です。

運命の達人にとって禍いというのは好機なんですよね。その中からチャンスを見出すことが出来るのですね。
逆に運命が凶い者にとっての禍いは単に禍いでしかありません。

運命とは、我々の精神何如(いかん)よるものということですね。

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