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【運命哲学#2】あるもので戦い、あるもので楽しむ

「あの人はお金も資格もキャリアもあっていいなあ」
「あんなふうに何でも手に入れられたら人生イージーモードだなあ」  


そんなことを考えたことがある人は多いでしょう。


確かにないものはないのですから絶対に手に入らないものもあります。


しかし、資格やキャリア、地位などは本来は実践の中から得ていくものです。


最初は失敗ばかりしていても、何度もトライしていく中で対処法を学び実力をつけてそこにふさわしい地位を得ていくわけです。


先に学校に行って資格をとって形を整えさえすれば実践してきた人と一足飛びに肩を並べることができるだろう、というのは本末転倒なのです。  


トランプゲームを思い浮かべてください(図11)。


トランプは配られた手札で戦わなければいけません。


強い札がないからといってそこでゲームを降りますか? 


たとえ弱いカードでも、それにはそれなりの戦い方があるはずです。


ゲームに強い人は弱い手札のときも「さあ、このカードでどうやって戦っていくか」とゲームを楽しんでいます。


学歴がなくても現場で高学歴な人がやらないようなこと、たとえばメールや電話で済ませるところを直接クライアントに会いに行って人間関係を構築するなど、できることはたくさんありますよね。


モデルやタレントのような容姿でないなら、自分に似合う自分色のメイクやファッションを見つけたら、あなたはどこにいても輝く存在になります。


嫌だなあ」と思うことには、それだけ「楽しいなあ」に変わる伸びしろがあるということです。


そうやって一つひとつ苦を楽に変えた経験があなたの引き出しになります。


この引き出しが運命哲学であり、苦を楽にする努力は開運には不可欠です。


努力というと何やら大変そうだなあ、と腰が引けてしまった人に質問です。


あなたは楽しいことをするのに苦しい努力をしますか? 


たとえば普通は何十キロも走るのは苦行でしかありませんが、あなたが市民ランナーでマラソンが大好きな人なら、走ることが苦しいでしょうか? 


走るのが楽しくて楽しくてたまらないのではないですか? 


そういう人にとっては走ることそのものが楽しみなので、努力という意識はなくなっているでしょう。


楽しいことをするのに努力はいらないのです。  


人生もそれと同じです。


成功する人は誰よりも仕事を楽しんでいます。


人生で開運する人も生きることを楽しんでいます。


楽しくするためにはまず努力とアイデアが必要であり、楽しくなったらその努力は努力ではなくなります。


仕事が嫌だから朝起きて会社に行くのに大変な努力が必要だという人もいるかもしれません。


会社に行きたくない」という無意識が為せることです。


そういう人は朝起きる努力をするのではなく、会社に行くのが楽しくなればいいわけです。


私がオフィス家具通販の会社を経営していた時、仕事は優秀なのにとんでもなく遅刻が多い社員がいました。


いくら仕事ができても遅刻が度重なると信用がなくなってしまいますから、どうしたもんかなあと考えた結果、職場のそばのおいしいと評判のコーヒーハウスに彼を呼び出し、毎朝二人でモーニングを食べながら雑談をすることにしました。


特にそこで彼に注意するわけでもなく、ただおいしいコーヒーを飲みながらあれやこれやとお喋りをするだけです。


彼にしてみれば朝行けば社長がおいしいコーヒーを奢ってくれるというわけです。


こんな朝活を始めて程なくして彼の遅刻癖はすっかりなくなっていました。


彼の中で「会社に朝行くのが苦痛」から「おいしいコーヒーが飲める」に入れ替わったのでしょう。


楽は苦の中にあるのです。


仮定と決断  


何かをすると決める決断は運を吉い方向に導くために必要なものです。


あの人は決断力があるね」とか「決断力がなくてぐずぐずしている」という言い方をよくしますが、闇雲にえいやっとジャンプするのは決断ではありません。


決断には仮定が必要であり、この「仮定力」をつけるのが運命哲学です。


太陽の表面は6000度」と理科の時間に習います。


実際に触って確かめたわけではありませんが光の量などによって6000度と計算されているので「そうであるだろう」と仮定しているわけです。


学問は仮定の連続であり、仮定から入って検証が行われます。


純粋な気持ちで物事を見つめて「これはこういうものなのだろう」と仮定していかなければ、物事は前に進みません。  


もちろん仮定が間違っていることもあります。


以前科学者に聞いたのですが、ある仮定を立てて実験してみたところ思うような結果にならなかった、ということは非常に多いわけです。


しかし、その実験は失敗ではありません。


なぜなら「このやり方ではできない」ということがわかったからです。


これは日常生活でも同じで、たとえば営業も「こうすれば売れるのではないか」と仮定して臨んだのに売れなかった。


となると「この営業方法はうまくいかないのだな」と理解できるので他の方法を考えよう、となります。


仮定する習慣を持ち、それを検証するという作業を繰り返すことによって自分の中に真理を積み重ねることができるのです。


真理には一足飛びにたどり着けるものではありませんが、この仮定─検証作業を繰り返すことによって初めからより真理に近い仮定を立てる力が身に付きます。


「やってみなきゃわからない」と立てる仮定は仮定ではありません。


「匹夫の勇」であり、徒労に終わることが多いでしょう。



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