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「武器としての『資本論』」を読書会して

この1月から「体感読書」という読書会をスタートさせました。
もうめちゃくちゃ面白い。頭から湯気出てしまうくらい。
そこで、最初の1冊目「武器としての『資本論』」を読んで、読書会で皆で話して、私の中でモクモクと湧いた感想をここにまとめておこうと思います。

それをお金で買いますか?

「資本主義」とは「商品による商品の生産が行われる社会(=価値の生産が目的となる社会)」と言う定義が、読了してから最も腑に落ちました。
資本主義において、まず、私たちは労働力を提供する「商品」である(と思われている)と認識するだけで、世の中の見方が少し変わるのではないかと思いました。
また、本書では白熱教室のマイケル・サンデルの著書「それをお金で買いますか?」を引用して、これまで常識的に売り買いがタブーされていたものまで、全て「商品」になっていく、それが資本主義の宿命だとありました。
この本にあった「遺伝子」の例なども、世の中が変わっていくのに合わせて「どうして売っては(買っては)いけないの?」となっていくであろうことは、想像に難くありません。

感性が資本に包摂されるということ

そして「どうして買ってはいけないの?」に違和感を持てなくなることが、私たちの感性が資本に包摂されていることだと著者は指摘します。
例えば、有名な大学を出ているから、●●という資格を持っているから、こんなことができるから、私には価値がある、と思ってしまうことそれ自体が資本に包摂されてます。「格差という虚構(小坂井敏晶)」を読んでいても「能力主義」や「自己責任論」という考え方はまさに資本主義に包摂された結果だと思います。裏を返せば、あなたが今、無職だったり、貧乏だったり、不幸だったりすることは、あなたが努力していないから、ということです。
つまり、私たちは労働力(商品)として資本主義社会に組み込まれているために、商品価値を高めろと教育されていきます。商品価値を上げるには、質を高める(技能・能力を高める)か量を増やす(労働時間を増やす)しかありません。
そうしたナラティブ(物語)を生きていると、無駄や手間は省かなくてはいけません。効率が悪いこともしていられません。

夜ご飯? 作る時間がもったいない(もしくはない)し、レンチンで済まそう。
子どもの勉強? 見る時間なんてないし(そもそも子どもなんて、サクサク宿題してくれないし)塾に預けよう。
食事の補助? 私じゃなくてもできるし、ヘルパーさん頼もう。

その手間が最もかかって、効率が悪いことの一つが、私は子育てだと思います。そしてそれを省いた社会が、今まさに少子化として目の前に顕れていると思います。

求めることが、等価価値の撹乱

著者は「自分の価値を高める」ことで商品の価値を上げるのではなく、「人間の基礎価値」を信じることが大切だと述べます。
資本主義は商品と商品の交換で成り立ちます。労働力の商品価値は、私たち人間の価値です。だからこそ私たちの価値はもっと高いのだと、私たちは思わなくてはいけないのだと著者は言います。
つまり「家族一緒に夕食をとる」「子どもの宿題を見る」「母親のお世話をする」ということを、私たちは当たり前に要求しなくては、その時間や余力を差し引いた対価しか、私たちには支払われないということです。

そこで立ち塞がるのが、能力主義や自己責任論。あなたが夜ごはんを作る時間がないのは、あなたの段取りが悪くて、効率的にできていないからでしょ?と。努力してる?と。さらにその求めることが「ケア」であると、資本主義ナラティブでは「お気の毒に」と端に押しやられます。

資本主義には、はじけない価値

話は本書から大きく逸れますが、この本を読みながら私がずっと引っかかっていたのは「仕事と家庭は両立できない?;『女性が輝く社会』のウソとホント」という本でした。著者はオバマ政権のクリントン国務長官のもとで、女性初の政策企画部長になった人です。家族を大切にしたいとそのポストを降りた彼女に「お気の毒に」と言った声をかけられた著者の違和感とともに、著者の選んだ「ケア(育児、介護)」の社会的評価への違和感が書かれていました。
資本主義の土俵に立つと、ケアは一番、利益の低い商品です。結果、ケアに携わる人たちの対価が低くなってしまっています。「Teal組織」の本にもケアに携わる人の葛藤が描かれていました。効率=利益を求めて、分刻みでシフトを組んで、マニュアルを作って、世間話など無駄なことはせずにテンポよく訪問介護しましょうとKAIZENしていきました。結果、これまで会話や表情から相手の不調を察知したりしていたことができなくなり、シフトで看護師が常時入れ替わることで、異変を発見しにくくなったりしました。そして機械的にシフト、マニュアルが組まれることで充分に相手との関係が築けずに「ケアがしたい」と思ってその仕事をしていた人たちのモチベーションが下がりました。
つまり、ケアは効率と対極にあるのです。
だから「ケアをしたい」というのは、資本主義の土俵から降りたい(もしくは両立できる能力がない=商品価値がない)と聞こえるし、その土俵でいくら電卓を叩いても、ケアの価値は算出できないのだと思います。
だから、私たちはケアを商品としての価値ではなく、私たちの人間の価値に組み込んでいく必要があるのかな、と思いました。

夕食は家族揃って食べるのは贅沢?

人間価値に組み込むとは、つまり、労働力という商品価値の原価にケアする時間や費用を組み込むことだと私は理解しました。例えば、月収30万だけど、朝6時〜夜9時過ぎまで働くのが常だとします。その場合、子どものケアは全て外注もしくはパートナーに任せっきりです。それを、そんなもんだと、お金で子どものケアを買うのは当たり前だと、思うかもしれません。
でも、ケアを人間の価値に組み込むとは、夕食は家族揃って食べたいと思う気持ちを手放さないということだと私は思います。朝から晩まで働かなくても、自分には「17時には帰って家族とごはんを食べる価値がある」と思うことだと思います。思ったところで、会社はそれを許しません。なら時短(給料減)で、どう?と。そこで認知的不協和が起こるので、きっと私たちは「そんなもんだ」と自分の認知を歪めていきます。そう、感性が変わるのです。「違和感」がなくなっていきます。

ケアが行き交う共同体

私が「違和感」を感じられるようになったのは、資本主義の外側にあると言われる「共同体」への所属を通してです。
例えば、近所のママ友が「ついでだしいいよ〜」と子どもを数時間預かってくれて、私は色々用事ができてとっても助かります。こういう関係をたくさん持っているのが「共同体」です。最小単位は家族です。ここで金銭のやり取りはありません。
こうした関係は少しずつ信頼関係を重ねならが、築いていく時間も手間もかかります。こうした持ちつ持たれずな共同体と言われて、田舎を思い出すのは私だけではないと思います。そういうのが鬱陶しいという感覚もよく分かります。なぜ鬱陶しいか、私は「世界は贈与でできている(近内悠太)」にある「不当に受け取ってしまった感」だと思っています。不当である、というのは、思わず受け取ってしまったけど、私には返せそうにもない、だから重くのしかかる。親の愛情などが最たるものです。

そんなものを重ねていく社会が鬱陶しいと、都会に出てきて、サクサク効率よく仕事をこなして、母になり、そして今では自分がコツコツ築いたこの共同体に助けられています。
それは、今、私がケアの当事者であり、ケアとこの共同体は相性がいいからだと思います。
ケアには、効率でも、お金でも、能力でもなく、「人」そのものが必要だからです。人の手が、気遣いが、ユーモアが、余白が必要なのです。
そしてその共同体に戻って、私は「感性」を取り戻したと思っています。

もちろん、資本主義における商品、サービス無くしては生活は成り立ちません。
それでも労働者であり消費者である私たちが声を上げることで、誰かが体や心を壊すまで働かなくても、誰かの生活を犠牲にしなくても、もう少し子育てや介護に関わりたいという自然な気持ちを押し込まなくても、世界は回っていくはずだと。今回の1冊をめぐる3ヶ月でグルグル思い巡らしていました。

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