エッセーの形というのは形がないという形

素直に何かに反応するということはとっても大事だろう。
最近の悩みはマスクのせいもあるけれど、外で歩いている女性がみな美人に見えるということである。虚しさを感じる。

最近本を読んだりすることに飽きてしまったのかもしれない。
あまり読めない。読めないなりにちびりちびりと読んでいる。
それよりも楽しいのは英単語(正しくは熟語)のカードを作って、受験生のように毎日こつこつ作っている。
地味ながら楽しい。こういうことが大事なんだ。
誇る必要はないし、わかってもらう必要もない。もちろんわかってもらった方がうれしい気はするけれど、わかってもらいたくない気持ちもある。

父親がたまにラインを送ってくれる。
弟と僕と父親の三人が入っているライングループ。なぜ母を入れないか?それは仲が悪いから。
父親はコロナの際に会社を首になった。
本人曰くコロナによる需要減が理由らしいけれど、いい年でなかなか仕事ができなさそうな父親は体よく首を切られてしまったのだろう。
そのあと、点々としながら今の職業に就いた。写真を定期的に送ってくる。
その仕事内容は楽しそうで、いいなぁと思うけれど、父親の髪の毛がいよいよはげている。もの悲しさを感じる。

セミが徐々に死んでいって、気温が下がって、Tシャツじゃ寒くて、雨がたくさんふってやんでまた降っている。今年は梅雨がないなぁなんて話をしたことの罰のように、室内はじめっとして洗濯物は乾かない。
家に帰るギリギリの時間に高い髭剃りをアマゾンで買っていたのが宅配されるので、コンビニによることができなかった。
忙しかったような気がするが、自分があまりうまくできなかったせいで、昼ご飯を食べ損ねていた。そのあとによくわからない会議が二発続いた。
隣に座った同僚は、小さい声でこれは意味があるのか、と問うてきた。意味がなくてもあってもいいかなと思う。でも早く会議を終わってほしいな、とも思う。
無駄話というのは、いつでもその話から抜け出せるという美学じゃないけれど前提のようなものを参加者が共有していないと、面白くない。強制的にしゃべらされている。話を聞かされている。寝ている方がいいし、働き方改革というものはそこから派生するんじゃなかろうか?

好きな哲学者がツイッターを復活してyoutubeで生放送している。
大変そうだ。

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