最近7分ぐらいで書けてしまう。一日7分ぐらいならとれる。空母的なnoteになっている。どこに飛んでいくのだろう。

読みやすさを意識した文章を書きたくないなぁと思う。
下書きなんてしないで、ざっと書き下ろしている僕が何をいまさらと思う。
もちろん読みやすさということはとても大事なことである。文章を読む人のために書いているはずである。
読んでもらいたいから写真をつけたり、タイトルをこねくり回したり、内容を彩っていくはず。なのだけれど、僕はそういうことはあまりしたくないと思っている。できないのかもしれない。わからない。
答えや結論めいたもの、教訓のようなものを求めていた時間が長かったけれど、最近はあまりそういうことは思わない。
むしろそういうものは、もう三十路もすぎてしまったので、ある程度目の前に転がっている。大した事ではない。ただ、大したことではないことに気が付くというか再発見する、もう一度目を向けて味わうみたいなことができるのはなかなか難しい。
当たり前のこと、それを拾い上げてレッテルをはがしてよく噛んで味わってまた同じラベルを貼って近くに転がしておく。こういうような営みをこの冬あたりに行っている。
すっとんきょうなことや、わかりやすすぎることは必要ないんじゃないかと思う。
最近そうやって得た知識というか技法みたいなものは、『人間の短期記憶は少ない』という非常に平凡なことである。こんなことは小学生でも体感的にわかっている。ただ、そういう体感的な知識を改めて書いてみて、うんうん僕はこれを再発見したのだな、と胸を張るということはなかなか当たり前の営みではないはずである。
毎日ひげを剃った方がいい、よく寝た方がいい、酒は飲みすぎず、全く飲まないと寂しい気がするのでたまに飲んでみて、ああやっぱり体に合わないなと思ってみたり、効率的に動きすぎるといったい自分が何のために生きているのかわかりずらくなってしまうので、無駄なことを愛してみたりする。
そういう当たり前さ、健全さのようなものがあって、嬉しいという感情である。
なんとかしないといけないような禍々しさが最近は減ってしまっている。何も自分が器用になったわけではなく、不器用な自分自身を幾度となく発見してほとほと驚くのに疲れてしまった帰結だと思う。
穏やかな自己肯定のようなことがしばらくできている。
みんなもnoteを書いてみよう。恥ずかしいほど恥ずかしくない自分がでてくるはずである。誰も気にしないし、自分もそんなに気にしていないことがわかる。書く事に集中しさえすれば。

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